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天海が明智光秀だった?!

 

ええ!どういうこと?

ちょっと、落ち着きましょう。

まず明智光秀って?

本能寺の変で織田信長を襲ったことで教科書にも載っていますね。

明智光秀

明智光秀の生涯は→明智光秀の生涯を年表で!勇猛で智将で教養人!

引用:Wikipedia

一方、天海は?(南光坊天海は尊称)

簡単に言うと、江戸時代のはじめ、徳川家康、秀忠、家光に仕えたお坊さまのことです。

天海

引用:Wikipedia

徳川家康の墓地、東照宮を日光に建てたり、徳川代3代将軍家光の名前を考えたり、徳川将軍たちの菩提寺寛永寺を建てたことで知られています。

その他、天海が行った事とは?→徳川家康公側近、「天海」が江戸を守った風水の驚愕の事実!

その天海が、実は明智光秀だったというじゃありませんか!!!

どういうことなのか、詳しく見ていきましょう!

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天海と明智光秀が同一人物?

天王山

まず、明智光秀は本能寺の変の後、織田信長の弔い合戦でもある、山崎の戦いで豊臣秀吉に大敗を喫します。

本能寺についてはこちらを→本能寺の変の真実とは?智将明智光秀が下した決断の理由!

光秀自身の居城、坂本城に戻る途中、小栗栖で農民に槍で刺され、その後亡くなったと言われています。

ががが、実はここで殺されていなかったのです。

明智光秀生存説!

死んだと思われていた光秀が生存していた理由とは?

①12人で逃亡していた明智光秀達でしたが、農民が光秀だけを槍で刺すってこと難しい。

②首験をした豊臣秀吉も結局明智光秀と判別しなかった。本物ではないと言う人が多かった。

③もともと明智光秀と徳川家康がグルで、織田信長を亡き者にし、二人で天下を狙っていた。

さらに、家康は信長に命を狙われていて、それを知っていた光秀が助けた。

二人の間に密約が交わされていて、光秀が生き延びることは約束されていた。

※一説によると、家康が安土城に信長にもてなされた時に殺害する予定だったのを、配膳の責任者だった光秀が信長の言うとおりにしなかったため、信長が激怒したとか?!

織田信長公が安土城で徳川家康公をもてなした料理「おちつき膳」とは?

また、信長は、家康を本能寺に呼んで殺害しようとしたが、それを事前に防いだとか?!

この辺りは、イエズス会のフロイスが記録に残していますね!

 

以上のことから光秀は生き延びたと推測します。

その時の明智光秀の感情とはどの様なものだったのでしょう。

山崎の戦いで敗走していた光秀の気持ちとは?

せっかく織田信長を襲って勝ち取った天下。

なのに来るはずのない豊臣秀吉が駆けつけ、光秀はあっさりと敗走します。

この時の光秀の感情は、秀吉に対して、相当怒っていると考えられます

 

最高級の憎悪を秀吉に向けて感じたはずです。

ここから、光秀のターゲットは完全に豊臣秀吉、豊臣家となるのです!

怖いですね!!!

光秀、天海となる!

さあ、光秀はとにかく秀吉の天下の間はおとなしくしていました。

山崎の戦場からも近い、比叡山で身を潜めていたのだと考えられます。

比叡山を焼き討ちにした信長を討ち取ったとなれば、匿ってくれるでしょう!

 

比叡山は天台宗総本山。天海の宗派も天台宗です。

徳川家康の宗派は?→徳川家康公が心底携わった究極の宗教は天台宗!と浄土宗!

そして、山崎の戦い後6年後、1588年に天海と名乗り、武蔵の国(埼玉県川越)の無量寿寺北院にはいり(無論、天台宗)突如出現します。もうそろそろいいだろうということでしょうね。

なぜ、武蔵野國に現われたのか?

これは、間違いなく、徳川家康が治める領地だからですね。

二人で天下を取る夢は終わってはいませんでした!

 

このころ、徳川軍が北条家を攻めているときに、家康の陣中に天海がいた、との資料が残されています。

一介のお坊さまが、陣中に普通いられるものなのでしょうか?

間違いなく光秀だったからでしょう!

 

豊臣家を滅亡させるべく動く!

それから約10年後、1598年、無量寿寺北院の住職となり、徳川家康のもとで、朝廷との交渉を果たしていました。

外交力もここでついたのでしょうか?

その後、天下分け目の関ヶ原の戦いにも徳川家康のもと参戦しています。

関が原の戦いについて→関ケ原の戦い!合戦に至る経緯を分かりやすく5分でまとめました!

家康天下統一のあとの、豊臣家一掃作戦、大阪の陣。ここで、天海最後の豊臣家への復讐が始まります。

そして更に10年後、1608年無量寿寺を復興させ、名前を喜多院にして関東天台本山にし、僧侶と尼を統括する「権僧上」を家康より任じられます。凄い出世ですよ!

 

大阪の陣のきっかけ

戦うきっかけが家康は欲しかったので、秀頼が建てた方広寺の釣り鐘の文字に着目します。

「国」「君臣豊楽」の文字が、家康を分断し、豊臣家が栄えるという意味を持っていると天海が指摘するのです。

家康はこれを上手く利用し、豊臣家滅亡へ続く戦い、大阪の陣が勃発しました。

策士ですね!

そして、豊臣家を完全に滅ぼした家康は、遂に完全に敵を倒し、日本を支配することに成功しました。

もちろん、天海の夢もここに再度成立することになります!(はじめの天下は10日程で終わっちゃいましたからね)

野望の完結!そして、今度は、以前の秀吉のような邪魔者もいません。

以下に、天下を盤石のものにするかっていうことがポイントになってきます。

その一つにこんなのも家康は重宝していました

徳川家康公は、占いを信じた?戦国時代の驚愕の占い天海の天源占星術とは?

次に、天海が明智光秀だろうっていう事について

見てまいりましょう。

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天海と明智光秀同一人物説証拠8選!

順に見てまいりましょう。

①日光東照宮

→家康の遺体を静岡の久能山から風水上鬼門である日光に移し祀りました。

ここに配置して、江戸を見守るとしたのです。

※最初家康の遺体を祀った久能山は吉田神道。豊臣秀吉を祀った神社、豊国神社の運営に失敗していた吉田家は家康で起死回生を狙っていました。しかし、そこに天海が待った!をかけました。大明神と言う神号を送られる予定でしたが、豊国大明神がすでに荒廃している事を理由に、天海が支持する山王一実神道的に、朝廷に働きかけ、「東照大権現」の神号を勝ち取ったのでした。

東照宮の建物には、明智家の家紋、「桔梗」が施されていたり、東照宮を見渡せる台地を「明智平」と名付けたり、天海が明智光秀だったとするポイントがアチラコチラにあります。

②徳川家将軍の名前

→3代将軍家光は天海が名付けました。そうです、その光は「光秀」の光です。

さらに言えば、秀忠の「秀」。4代将軍家綱、5大将軍家継の「綱」と「継」は光秀の父と祖父の名前から取っています!

光秀の家系図はこちら→明智光秀子孫にタレントクリスペプラーが!あの人も家系図に?

③かごめかごめの童謡に込められた意味

かごめかごめ

→歌詞の中の「鶴と亀が統べった」は、光秀が治めていた領地、「敦賀と亀岡(山)」でした。

因果です。

さらに「後ろの正面だれ」は、光秀の出身地の岐阜可児郡から日光東照宮の方を振り返ると、そこには光秀の肖像画が唯一残されている寺、本徳寺があるのです。

ちょっと怖いですね。

さらに唯一残される肖像画に謎の文字が書かれています。

僧侶となり寺をでる」と。ここに、光秀がいて、僧侶になって家康に近づいていったのでは?

また、本徳寺にてこんな歌も残されています。

鳥羽へやるまい女の命 妻の髪売る十兵衛が住みやる 三日天下の詫び住居

この歌は、山崎の戦い後に光秀が住んでいた事を現しますよね。

本徳寺を開いたのが明智光秀の長男、光慶だといいます。

遠く、大阪の地から江戸を見守っていたのでしょう!

④光秀の家臣、斎藤利三の娘、将軍家光の乳母、春日局になる

これも普通ではちょっと考えづらい話ではありますね。

お福って徳川家からは結構遠いですよ。

お福の親戚である光秀が天海として家康の近くにいたからこそ

出来た芸当ではないでしょうか?

江戸で天海と春日局(お福)があった時に春日局は天海に「お久しぶりです」と言ったとか?

 

⑤比叡山の石灯篭に光秀の名前が!

比叡山

比叡山の飯室不動堂の石灯篭に光秀が寄贈したとの記録が残されています。

しかもその記載された日にちは光秀が殺されたとされる時代のだいぶ後の慶長20年、豊臣家が滅亡した年です。

豊臣家が滅んだことに対して寄贈したのかも?!

他にも

⑥天海の筆跡と明智光秀の筆跡はかなり似ている!

⑦天海の諡(死後付けられる名前)慈眼大師の「慈眼」を名乗った寺に光秀の像が在る!

⑧天海が死んだ時、光秀ゆかりの寺や神社からお布施が届いた!

愛宕威徳院や明智家の菩提寺西教寺。

本能寺の変、直前に寄った愛宕神社に関してこちら→明智光秀が本能寺の変前に愛宕山で連歌百韻戦勝祈願!くじの結果は?

最後に

様々な説が飛び交う天海=明智光秀説。

本当だと私は信じています。

年齢が合わない部分がある事は指摘されてはいますが、(天海が100歳以上することになります)

どんな形であれ、天下を治めることが出来て明智光秀(天海)は本望だったと思います!

天海、明智光秀、永遠に!