京都にある二条城というお城をご存知でしょうか?
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二条城築城の目的は?
それだけのために城を作るっていうのも、今の感覚からすると、凄いなって思っちゃいますけどね。さすが日本のトップの権力者は違います!
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それでは二条城が出来たのはいつでしょうか?
二条城の築城はじまり
1601年につくりはじめ、1603年(慶長8年)3月に出来たといいますから、江戸時代初期ですね。
場所は、大宮押小路(現在の京都市中京区区役所近く)。そこにいた町家は立ち退きを迫られました。
当時の住民たちはさぞバタバタしたでしょうねえ。
造営総奉行(建築責任者)に、京都所司代(京都の治安維持を管轄した部署)の板倉勝重(超優秀な裁きを魅せる名奉行)、大工棟梁に中井正清(法隆寺の屋根に登れる数少ない職人。江戸城、日光東照宮など徳川家に関わる重要な建造物を軒並み担当した)が任命されました。
そして、西国の大名(主に関が原の戦いで西軍についた方たちですね)たちに造営費用や労務が割り当てられた天下普請(江戸幕府が諸大名に命じて行わせた土木工事)でした。敗者は大変です。
関が原の戦い(1600年)が終わり、徳川家康が天下統一を果たしてしばらく後のことです。
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徳川家康、征夷大将軍に任命される
徳川家康は、1603年に武士の棟梁としての最高権力者である「征夷大将軍」の位を朝廷から授かり、名実ともに日本のトップの座に就きます。
その祝賀会を重臣や、公家衆を招いて、3月に祝賀の儀をこの二条城で盛大に行いました。
さらに翌月には、諸大名達も招いて、能楽なども行われ徳川将軍の権力をまざまざと魅せつけました。
まだ竣工間もない頃でしたので、唐門は煌めき、ふすま、天井はキラキラ輝き、木の匂いが香り、狩野派による障壁画は息づいて見え、とっても新鮮な状態で行われたことが想像できますね。
戦国の時代も終わり、皆がちょっとホッとした気持ちで参加ししつつ、その建築にワクワクドキドキしたのかなって思います。
しかし、徳川家康の前に日本を統一し治めていた豊臣秀吉の息子、豊臣秀頼はいまだ健在で、家康にとっても、目の上のたんこぶ、無視できない存在でした。
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そこで徳川家康は、大阪城に住む豊臣秀頼を、二条城に呼び、会見を要請します。
はじめは断ろうとする豊臣家でしたが、家康は様々な策を練り、その会見を実現します。
1611年3月のことでした。
徳川家康と豊臣秀頼の会見
引用:Wikipedia
当時、徳川家康69歳、豊臣秀頼17歳、おじいちゃんと孫の年齢差がありました。
家康は歴戦の強者で、老獪な実力者で、当時大御所として日本を裏から牛耳る最大権力者でした。
一方秀頼は、まだまだ年も若く、12年ぶりに大阪城の外の世界に出たほどでした。
この会見は、お互い大人の対応により無事に終わりますが、結果、徳川将軍家の要請に豊臣家が応じたということで、世間的には、徳川優位との見解が広まる結果となりました。
会見は二の丸御殿で開かれ、2時間ほどで終わり、その後は酒やお吸い物などが振る舞われ、賑やかな昼食会になったようです。顔は笑ってはいたでしょうが、心はどうだったか?
この会見で、家康は、秀頼の成長ぶりに驚き、豊臣家を滅ぼす決意をしたと言いますから、秀頼かなり立派な青年に育っていたのでしょう。
そして、家康の決意は現実の物となるのです。
大阪冬、夏の陣
1614年には、豊臣家に付く大名と徳川家側との最終決戦第一ラウンド、大阪冬の陣が勃発します。
この時の二条城は、徳川家康の本陣となります。
そして、翌年1615年第2ラウンド、大阪夏の陣の最中、二条城に火をつけ、混乱の中徳川家康を暗殺する陰謀があることが明らかになりました。
結果、この事件は未遂で終わりますが、緊迫した状況が続いていたことは間違いありませんね。
焼けなくてよかった!危ない危ない!
結局大阪冬・夏の陣は、徳川家側が勝利し、豊臣家が滅亡し、徳川家を脅かす勢力は,一掃されます。
徳川家の支配が確実なものとなるのです。
もし二条城が人なら、やっと戦争が終わったなという安堵な気持ちで見ていたかも
しれませんね。
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徳川秀忠、家光による改修
1619年、2代将軍徳川秀忠は、娘を天皇に嫁がせる準備のため、二条城の改修を行いました。この時、築城名人の藤堂高虎(築城3名人の一人。他は、黒田官兵衛、加藤清正)と一緒に考えたといいます。
その後、1624年、3代将軍徳川家光の時、天皇の行幸(外出)先を二条城にて迎えるために、さらに大改築を行います。この時伏見城の天守を移築したり、拡張したりしています。
下は伏見城です。(現在の天守は鉄筋コンクリートでできた模擬天守)
この天守が下の石垣の上に乗っていたのですね。(現在の二条城天守台)
そして、1626年5日間に渡って能楽、蹴鞠、和歌、乗馬といった会が催されて盛り上がりました。この時が、二条城として一番華があった時代と言えるでしょう。
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1634年に家光が30万の兵を連れて二条城に入城して以後、二条城は将軍の宿泊地としてのも使われなくなり、歴史の舞台から消えます。
お役目御免です。
二条城不遇の時代
次にスポットライトが当たるのは、幕末の動乱期です。それまで230年間、二条城は不遇の時代を送ることになります。
1750年には落雷があり、伏見から持ってきた天守は焼け、1788年には町の火事の飛び火により、本丸御殿が焼失します。
うおーーー!ショック!
しかし、幕府の政庁としても使用されていなかった二条城は、全く再建されず、修理を施されるくらいで不遇の時代を越え、幕末を迎えることとなります。
14代将軍徳川家茂でちょっと復活
1863年、14代将軍徳川家茂は、孝明天皇(明治天皇の父)の妹和子を妻にもらいます。
妻の兄である天皇に、攘夷(外国を排除する考え、行動)の約束をするために上洛するのですが、この時に備え、二の丸御殿が大幅に改修されます。
二条城、良かったね!
その後、家茂は病気で21歳の短い生涯を終えます。あらら。
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最後の将軍徳川慶喜による大発表「大政奉還」
引用:Wikipedia
次の将軍は運命の15代将軍徳川慶喜。
大河ドラマ「西郷どん」では、松田翔太さんが演じていましたね。
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1866年、二条城で征夷大将軍の宣示(表明する)を受けます。
しかし翌年1867年10月には徳川慶喜による大政奉還が二条城二の丸御殿大広間(将軍が座る一の間48畳、大名たちが並ぶ二の間44畳で相当広いです)で発表されます。
(大政奉還とは、日本の政権を将軍から天皇に返す事を決定、発表した事件のことです。これは、700年ほど続いた武士による政治が終わったという事実であり、日本の歴史の中でも相当大きな出来事です。そんな舞台に二条城は立ち会っていたのです。二条城が人だったならば、どんな気持ちで眺めていたのだろうか?って勝手に妄想しちゃう自分がいます汗)
徳川家康により築城された二条城は、徳川家由来の建造物でありましたが、徳川慶喜の大政奉還の大発表により、その手を完全に離れたと言えるでしょう。
さよなら徳川さん!二条城とお別れです。
近代の二条城
その後の二条城は、京都府庁舎になったり、大正天皇の即位の儀式の場所になったり、日本100名城に選ばれたり、将棋の電王戦が行われたり、様々な事がおこり、現在に至ります。
なにげに忙しくしていますね!
良かったです。
文化財としての二条城
この二条城はいま、文化財として高い評価を受けています。
様々な苦難を乗り越えてきて酸いも甘いも知っているこの建造物は、日本や世界に認められることになりました!
これまた嬉しいことです。
以下にまとめてみましたので御覧ください!
国宝!「二の丸御殿の6棟」★ここは見どころです!
※国宝とは重要文化財の中でもさらに世界文化の見地から見て価値が高い類ないものと国が認めたもの
建物名 | 説明 | 画像 |
遠侍(とおざむらい)及び車寄(くるまよせ) | 遠侍(画像左)は大名たちの控室。車寄せは二の丸御殿の玄関(画像右)です。良く目にする二条城とはこちらですね! 障壁画は虎!来るものを威圧します! | |
式台(しきだい) | 登城した大名の取次(受付)の場所。将軍への献上品はこの場所で受け渡されました。 障壁画は大きな松の静かな冬の情景等。穏やかな感じ。 | |
大広間(おおひろま) | 格式が高い場所で、将軍の表向きな対面に用いられました。最も公式的儀礼的な場所です。大政奉還が行われたのもこの場所です。 障壁画には、吉祥を意味する孔雀や、勇猛な将軍を称える鷹などが描かれています。 | |
蘇鉄の間(そてつのま) | 式台と黒書院をつなぐ廊下的な場所です。(画像左) | |
黒書院(くろしょいん) | 将軍の内向きな対面所。譜代大名たちとの内輪の対談をする場合に使用されました。大広間とは対照的な使われ方です。
障壁画には、梅、桜、ツツジと季節の移り変わりが描かれています。込み入った話は明るい環境で! | |
白書院(しろしょいん) | 将軍の休憩所や寝所として使われた場所。使用目的上、建物の一番奥に位置します。 障壁画は水墨画で描かれ、中国の西湖などが描かれています。プライベート空間は落ち着きそうです。 |
そのた、重要文化財に指定されているのが、次のものです。
建物 | 説明 | 画像 |
本丸御殿4棟(旧桂宮邸)「玄関・御書院・御常御殿・台所及び雁の間」 | 創建当初は二の丸御殿に匹敵する規模がありました。現在の建物は明治26年に旧桂宮邸が移築されたもので徳川家の二条城とは関係がありません。 | |
二の丸御殿(国宝6棟含む) | ||
唐門 | 二の丸御殿の正門。きらびやかでキレイです!しかもかっこいい! | |
築地(ついじ)塀 | 泥を固めて作った塀のことです。高度な技術! | |
台所・御清所 | 台所は料理を作る所。御清所は配膳を組む場所。 | |
本丸櫓門 | 本丸の入口になる門。 | |
東・北大手門 | 東大手門が正門。画像は東大手門。将軍様の御な~り~って感じでご入場されたのでしょうね! | |
土蔵 | ||
西門・鳴子門・桃山門・北、南中仕切門 | 画像は西門。桃山門と鳴子門は本丸と二の丸の通用門。二の丸を東西に分ける仕切門。 | |
東南・西南隅櫓・北方多門塀 | 画像は東南隅櫓。江戸城を彷彿させますね。さすが徳川の城! | |
絵画(二の丸御殿の障壁画954点) |
その他、京都の古都を構成する一つとして世界遺産に登録されたり、二条城全体が史跡(遺跡と同義)に指定されたり、二の丸庭園が特別名勝(特別に価値の高い文化財)に指定されたりしました。
上は二の丸庭園。別名「八陣の庭」小堀遠州作です。亀や鶴をイメージしているようです。
小堀遠州は、西教寺の庭なども手がけていました!池を上手く使うのが得意というイメージがあります
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ここまで評価されたのならばきちんと保護されるでしょうから安心ですね!
あとがき
今は修学旅行や京都旅行の定番になっている二条城。
こうした歴史を紐解くと、様々な事件が二条城でおこったんだなあと感じます。
その都度乗り越えてきた二条城は、建物なのですが、単なる建物と思えず、感情移入してしまう自分がいました。
是非これからも健在で、日本の歴史を見つめ続けてほしいな思います!
最後に二条城のアクセスを簡単に
所在地 | 〒604-8301 京都市中京区二条通堀川西入二条城町541 TEL 075-841-0096 FAX 075-802-6181 |
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拝観料 | 一般600円。中高生350円。小学生200円。 |
交通機関 | 電車 JR京都駅から 地下鉄烏丸線「烏丸御池駅」から地下鉄東西線に乗り換え 阪急 烏丸駅から 市バス 12・101号系統 ⇒ 「二条城前」下車 阪急 大宮駅から タクシー,約5分 京阪 三条駅で地下鉄東西線「三条京阪駅」に乗り換え 「二条城前駅」下車 自動車 名神高速道路 京都東ICから,約30分 京都南ICから,約30分 |
駐車場 (二条城の来城者用駐車場です) | 二条城駐車場運営状況 ○第1駐車場(二条城東側) 営業時間 8:15~18:00※1 収容台数 バス 11台※3 乗用車 120台 駐車料金 バス 2時間まで ○第3駐車場(二条城南側) 営業時間 8:15~18:00 収容台数 乗用車 20台 駐車料金 2時間まで 800円 以降1時間ごと 200円 ○駐輪場(二条城南側) 営業時間 8:15~18:00※1 収容台数 バイク10台 自転車83台 駐車料金 バイク 2時間まで 400円 以降1時間ごと 200円 自転車 2時間まで 200円 以降1時間ごと 100円 |
上からの地図
二条城建物配置図 1.東大手門、2.番所、3唐門、4.二の丸御殿車寄、5. 二の丸御殿遠侍・式台・大広間、6. 二の丸御殿黒書院、7. 二の丸御殿白書院、8.二の丸庭園、9.蓬莱島、10.台所、11.御清所、12.土蔵、13.便所、14.事務所、15.南門、16.桜の園、17.梅林、18.西門、19.本丸御殿、20.本丸櫓門、21.本丸庭園、22.天守台、23.和楽庵、24.香雲亭、25.北大手門、26緑の園、27.展示・収蔵館
引用:Wikipedia
地図