戦国武将・大名は食事中どんな汁ものを飲んでたのでしょうか?
はい、どうやら味噌汁などを飲んでいたようです!
戦国の時代にも味噌汁はあったのですね。
今回は戦国時代の汁ものを見てまいりましょう。
八丁味噌とは?
愛知出身の織田信長公、豊臣秀吉公、徳川家康公は、みなさん豆味噌をお使いのご様子。
いわゆる「八丁味噌」ですね。
※八丁味噌とは、岡崎城から西へ八丁(870メートル)離れた場所で作り始めたことが語源です
豆麹で作るため、発酵に3年ほどかかりますが、栄養豊富なのです。
軍馬の飼料としてよく使われるくらい栄養価が高かったです。(軍馬は普通の馬と違って体力を消耗するので、普通の草ではなく、栄養価が高い豆である必要性があったようです)
例えば、ストレス軽減に働くセロトニンのもととなるトリプトファン、タンパク質を代謝するビタミンB6、脳の機能を活性化させるレシチン、疲労回復や免疫機能強化につながるアルギニン!
私も健康のため、こういった栄養素をバランス良く取れるように気をつけていますが、戦国武将の方々は、ナチュラルに摂取出来ていたようですね。
こちらの商品は、まさに三河の八丁味噌です(豆味噌)徳川家康公、豊臣秀吉公、織田信長公達が愛した味をお試しあれ!
糠(ぬか)味噌汁って?
大名クラスは味噌汁ですが、一般武将は、野菜汁や糠味噌汁だったようです。
糠といえば、玄米を精白する際に出るもの。
味は独特なにおいがあり、お世辞にも美味って感じではないでしょうけど、栄養価は味噌汁同様かなり高いものがあります。
野菜や肉を入れておいしくいただていたのでしょうか?
それにしても戦国時代の方は、玄米の周囲も余すことなく食材として使われるというなかなかすごいことです。
食材を無駄なく使うこと=SDGSに長けていたようです。t
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明智光秀公の汁講(味噌パーティー)はどんなだったのか?
また、「汁講(しるこう)」と呼ばれるちょっとしたパーティーも開かれていたようです。
招かれた人はご飯を持ち寄り、招いた側は、汁を用意しておく、というもの。
持ち寄ったご飯を汁入れてお酒を飲みながらみんで歓談するものです。
見栄じゃないですが、ここできちんとおもてなしできることが周りの評判に大いにかかわってくるはずです。
明智光秀公の汁講逸話
まだ有名になる前で浪人中の貧乏時代の明智光秀公にある逸話がありますのでご紹介しましょう。
主催者は輪番で回ってくるのですが、ある時明智光秀公におもてなしする順番が回ってきました。
お金が無く、他人に振る舞う汁の具を揃えられない!と困った明智光秀公。
具なしのさびしい状態でおもてなしするわけにはいきません。
そこを救ったのは妻、煕子でした。
なんと自らの黒髪を売って食材を調達したようです。
結構豪華にしたようですが、そのおかげで汁講は大成功!
汁講を成功させたことで、明智光秀公の株も上がるし、妻の評判も上がったでしょう。
恥を欠かずにすんだ明智氏は、その後どんどん出世していくことになるのです。
北条家は汁かけご飯!
今度は、関東を支配する北条家の食卓を覗いてみましょう。
北条氏政公が強飯(こわめし)に汁を掛けて食べていますね~。
(強飯はせいろで蒸した硬めのご飯)
戦国時代にも汁をご飯にかけねこまんまみたいにして食べていたのですね。
北条氏康公の教え
もっとも、北条氏政公が汁を2回かけるのをみた父北条氏康公は、「一杯の椀にかける汁の分量も分からないようでは、人の目利きなど出来ぬ」と嘆いたようです。
戦場や国の支配において、先のことや全体をしっかりとみて人の様子を判断し、適材適所を判断できなければ、組織も作れず、果ては国を亡ぼすことにつながると教えたかったのでしょうね。
大国を治める戦国武将の教えはさすがなかなか本質を得ていますね!
まとめ
現在と同じく味噌汁は戦国の世でも飲まれていましたね。
糠はちょっと味的に厳しいですが・・・。
汁にまつわる明智光秀公の妻の話や、北条氏康公の小話なんかは現在に生かせそうですね。
結論、汁物は、戦国時代では栄養を補う大事な役割を果たしていて、無くてはならない食材だったようです。
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