「喧嘩両成敗法」(けんかりょうせいばいほう)

この言葉の意味は「喧嘩をした者たちは、善悪を問題にせず、両者ともに死刑(処罰)にする法律」というものです。

なかなか厳しい法律ですね。

 

現在でも何かいざこざがあった者たちを仲裁する時、「喧嘩両成敗だからね」などと、喧嘩した両人に責任があると言うことがあります。

実は喧嘩両成敗のルーツは室町時代から戦国時代にかけて見ることが出来ます。

実際に用いていた戦国時代の大名といえば、武田家分国法の「甲州法度」今川家分国法の「かな目録」といった分国法(大名家の法律)にみることが出来ますし、古くは室町幕府が定めた法律(建武式目追加)にも見ることが出来るのです。

参照:甲斐の国、戦国大名、武田信玄公は「こじか」タイプ?その中身は?職場にいる?

果たしてこの法律は何のために定められたのでしょうか?理由は?

 

またきちんと運用していたのでしょうか?

 

喧嘩両成敗で当事者たちは納得したのでしょうか?

 

今回は、戦国大名武田家と今川家の分国法で定められた「喧嘩両成敗」について、探ってみたいと思います。

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喧嘩両成敗が誕生した理由とは?

冒頭で見たように、なかなかに厳し目の法律です。

だってお互い喧嘩、戦争を起こしたら「死罪」って!

 

殺されてしまうならば、相当の覚悟がなければできませんよね!

 

そこまでしても法律を定めなければならない理由がありました。

 

それは領国を治安するために必要だったってことです。

 

喧嘩両成敗がなかったら?

もしこの法律がないと、ちょっとしたことで始まった喧嘩が、お互いの知人を巻き込んで、一気に拡大してしまう傾向が戦国時代にはありました。

特に敵討ち、仇討ちといった復讐系はむしろ美化されていた傾向がありました。

しかし、美しい仇討もれっきとした戦です。

死人が出たり憎しみに溢れたり、余計なパワーを使います。

そんなところで身内で争ってもらいたくはない!って大名は考えたはずです。

戦が始まってしまうと、もう抑えが効かない状態になってしまい、戦国大名による領国支配がおぼつかなくなってしまうのです。

「それは避けたい!」ってことで導入していった大名が、武田信玄や今川義元でした。

 

喧嘩両成敗はどんな分国法に記載されていましたか?

今川義元はかな目録という分国法の8条に。武田信玄は甲州法度という分国法の12条(追加は17条)に記載しています。

※分国法とは?戦国大名たちが領国支配のために定められた法律のことです。幕府の法律(建武式目)もありましたが、その影響が室町時代後期になりますと弱まり、地方の戦国大名が自ら法律を制定する必要があったのです。

 

参照:六角氏式目からみる戦国時代の裁判!費用は現在よりも安い?自力救済からの脱皮!

喧嘩両成敗は実際に運用されていましたか?(武田家の実績から)

武田信玄

武田家では実際に分国法に基づき喧嘩両成敗が運用されていたようです!

 

その例をご紹介しましょう!

1,布施三兄弟(越後浪人)と諏訪弥左衛門との喧嘩

原因不明ですが、両者との間にいさかいが生じ、喧嘩がおっぱじまります。

 

最初は武田信玄も両者をなんとか許そうと、まずは息子の武田勝頼を使者として送り、沈静化に務めます。

参照:武田勝頼公!悲劇の戦国武将の生き様!そこから学べる2つの事!

 

一度は収まるのですが、3日後、また喧嘩が始まってしまいます。

両者のなんらかのプライドが許さなかったようです。

 

その時、どのような言葉で喧嘩したのでしょう?

甲州弁についてはこちら⇒甲州弁とは山梨県のブサイクな方言!?

 

これには武田信玄も激怒!両者は死刑にされました。

まあ、これはある意味仕方なかったのかも?

法律が厳格に実施された例です。

 

やはり、喧嘩両成敗法は実行されていたのですね!

 

しかし思わぬところから刑が緩和されることもあったようです!次見てみましょう。

 

2,諸角助七郎と原甚四郎との喧嘩

躑躅ヶ崎の館(武田信玄の居館)にて、諸角助七郎と原甚四郎という侍同士の喧嘩がおっぱじまりました。

原因はこれまた不明ですが、血の気の多い武田家の侍のことですから、きっとお互いのプライドを傷つけられたりされたのでしょう。

参照:武田信玄公の居館「躑躅ヶ崎の館」間取り大公開!

 

お互いに2箇所負傷し、しかし最終的に決着がつかず引き分けとなります。

 

武田信玄は、自分が住む神聖なところで何してくれる!ってことで相当激怒します。

 

本来の喧嘩両成敗法では、「死罪」でしょうが、どういう風の吹き回しか、二人は死罪を免れるのです。えええ!

 

何故か?

二人の父親が偉大だったからです!具体的に言えば、二人の父親が武田家において、大いに武功を上げていたからです。

※原甚四郎の父は鬼美濃とあだ名され、近隣国から恐れられた猛将原美濃守で、諸角助七郎の父は諸角豊後という川中島で武功を挙げ討ち死にした名将だったのです。

甘くなるのも仕方ない???でも泣いて馬謖を斬るっていうことわざもあるんですけどねえ?

 

でも、さすがにこのままお咎め無しでは家臣に示しがつかないというわけで、二人は禄(給料)と部下を没収されました。

 

うーん、前述の布施三兄弟たちがちょっと不憫ですね。

番外編.刑が結構酷い

ここでどのようにして処罰していたのか?ちょっと見てみたいと思います。

 

普通に刑といっても結構エグいやり方でやっていたようです。

例えば耳を削ぎ落としたり、窯の中で茹でたり?!

「えっ」て思うようなやり方がなされています。

どういう神経をされていたのか?

狂気の時代ですね!

 

 

それでは戻って、武田信玄の喧嘩両成敗の事例によっての違いについて見てみましょう。

武田信玄の処置には理由があったのです。

それは喧嘩両成敗法のデメリットが絡んできます。

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喧嘩両成敗法のデメリットとそれを埋める考え方

喧嘩両成敗法は仇討ちを取り締まる法律です。

そこで、喧嘩両成敗法のデメリット。

それはズバリ、仇討ちして相手を打ち倒すという「男道」(武士としてあるべき思想・行動)を実践する場を失い弱体化してしまうということです。

 

本当に実力あるもの、「男気」あるものが、法律違反だからと言って、どんどんいなくなっていくことにつながるってわけです。

 

喧嘩が大きくなって問題になるのは防ぎたかったのですが、武士の気概を持つ者を失いたくはない。

 

そんな武田信玄の心の奥底の思いが、情状酌量させたのだと思われます。

 

 

ということで、武田信玄なりの情状酌量があるとは言え、まずまずきちんと運用していたところもあることが分かりました!

 

喧嘩両成敗でお互いは納得?

納得?

この喧嘩両成敗ではお互いは納得したのでしょうか?

結果的に超法的(法を超えた所)で決着がついてしまうので、納得いくものといかないものが出ていたと思われます。

 

しかし、判決を言い渡すまで、きちんと調査をして、しかも一度で判断しないところを見ると、猶予や、その過程などもきちんと判断材料になっていますので、その面では納得行ったんだと思います。

 

とにかく、内輪で喧嘩をせず、外の敵に向かって存分に喧嘩のエネルギーをぶつければ領主にとっても本人にとっても良いことだったのでしょう!

 

まとめ

室町幕府から続くこの喧嘩両成敗法。

事が大きくなることを防ぐ事ができ、当事者が納得せざるを得ないというメリットがありました。

しかしながら、武士としてのあるべき姿を否定する一面もあり、そこを両立させるのが、難しくもありました。

 

結局は裁く側の人間の考え方によって判決が変わってきちゃうことはありますが、、、。

 

でもとにかく荒くれ者が多かった甲斐の国(山梨)を治めていくには、厳し目の法律が必要で、「男道」を失わなくするには、また違ったアプローチをすればいいやって武田信玄は思っていたのでしょう。

 

さじ加減が難しい。領主って難易度高いですね!

 

 

今も喧嘩両成敗って言葉を使いますが、万能の解決方法ではないって事を、胆に命じる必要がありますね!

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