「落とし物は交番に届けましょう!」
道端で落とし物を拾ったら、基本的には交番へ届けますよね?
それは現在では当たり前のことです。
では時代をさかのぼって戦国時代はどうだったのでしょう?
戦国時代では、落とし物は神仏からの授かりものとする考えが大勢を占めていました。
つまりは拾った人は、その落とし物をありがたくいただくことが出来たわけです。
「ありがたや~ありがたや~」って感じですね!都合いいなあって思っちゃいます笑
なんか幸せな考え方ですが、当時は本気でそれが信じられていたのでしょう。
しかし、この戦国時代の中にあって、今と同じ感覚を持っていた戦国大名がいました。
東北の戦国大名で独眼竜で有名な伊達政宗の曽祖父、「伊達稙宗」です!
伊達稙宗は、「落とし物は持ち主に戻すべきである」としっかりと宣言していました。
それが伊達稙宗が作成した分国法「塵芥集」に出てくるのです。
今回は、本当に些細なことですが、誰かの落とし物の扱い方について、伊達稙宗の塵芥集から
紐解いていきたいと思います。
落とし物について塵芥集の条文から
伊達稙宗が編纂した分国法(法律)「塵芥集」は170条からなる最大規模の分国法(法律)でした。
塵芥集とは?簡単にまとめますと、
かなり細かい条文までまとめた170条文からなる分国法(法律)のことです。
タイトルの「塵芥」とは些末なこと(塵・芥)でも詳細に載せているから付けられたタイトルです。
夫婦喧嘩から交通ルールまで定められていました。
その中でも刑事関連に関することは特に充実しています
他の分国法参照:喧嘩両成敗法の意味とは?武田家分国法でどう運用?当事者は納得?
それでは早速伊達稙宗が記した条文から見てみましょう。
71条
「道のほとりで見つけた落とし物について。
西山城(伊達稙宗の居城)の橋のたもとに札を立てて、その落とし物の特徴を紛れなく申し出たものに返すようにせよ。
また、落とし主は、10分の1相当の礼を拾い主に支払うようにせよ。
もし拾ったものを長く据え置いた者は処罰する」
とあります。
つまりは「私(伊達稙宗)が住む城の麓の橋に立て札を立てて、拾い主を探しなさい。
そして、見つけたもらった暁には、落とし主は拾い主に10分の1相当の礼を支払うようにしなさい。
落とし物を長く据え置いた者は処罰します!」
という意味ですね。
ここまできちっと条文にしたものは日本初でしょう。
やけに具体的ですねえ!
戦国時代の人が落とし物を拾った時の心情
ここで、落とし物を拾った時の、当時の方の感情を見てみましょうか?
ここでは、1貫(15万円)を拾ったとしましょう。
「やった!これは神様からの授かりものだあ!」
それはきちんと殿様に届けなきゃだめだよ。
そうだ、届けなきゃいけないんだった!教えてくれてありがとう
どういたしまして。持ち主が現れたら、お礼に1万5千円もらえるね!
良いことをすると見返りがあるものですね!
良い行いをしてさらにお礼までもらえるなんてって考えの人ばかりでしたら世の中幸せなのにって思う今日このごろです。
現在と戦国時代の落とし物の扱いの違い
それでは現在と戦国時代の落とし物にかかる費用について表にして見てみましょう。
現在 | 戦国時代(東北) | |
落とし物を届ける場所 | 近くの交番・警察 | 西山城(領主の居城) |
落とし物の情報開示場所 | 近くの交番・警察・ネット | 西山城近くの橋の立て札 |
拾い主への返礼(請求権利) | 5%~20%に当たるお礼 | 10分の1相当のお礼 |
落とし物の長期保管 | 処罰対象 | 処罰対象外 |
結構似たり寄ったりですね。
この頃からあまり変わっていないところを見ると、完成度がこの部分では高かったのかの知れません。
立て札があった西山城の麓の橋は?
立て札があった場所は、現在でいうとどの場所だったのでしょう?
どうやら城の麓、観音寺(伊達家ゆかりの寺)に続く道途中にある橋の側に立て札があったようです。
中観音寺橋ですね。
自分の落とし物ないかなって、当時の方は、ちょっくら橋のたもとに寄り道して札を確認していたのでしょうかね。
まとめ
かなり細かい条文までまとめた170条文からなる分国法「塵芥集」。
そこに書かれていた落とし物の処理の対応方法。
これは今までにない条文でした。
当時の方たちの日常が少しだけ垣間見ることが出来て、とっても楽しかったです。
落とし物は神様からの授かりものっていう発想もいいけど、やっぱり誰かの物なので、
きちんと持ち主に返すってことは大事です!
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