桶狭間の戦い(おけはざまのたたかい)とは?
一言で言うと、
「織田信長の名前を世に売り出した戦い!」
でしょう。
誰にでも、一生の内、ターニングポイントとなる出来事があると思います。
織田信長の場合はこの桶狭間の戦いが、正にそれでした!
御年27歳。体力・気力ともにみなぎっているエネルギッシュな状態だったのでしょう。
世に打って出るには、きっかけが必要で、これが織田信長にとって
必要不可欠な出来事になったのでした。
世に出るべくして出たのです。
豊臣秀吉だったら一夜で城を築いた「墨俣の一夜城」でしょうし、
武田信玄でしたら「父信虎を国外に追放した」事件でしょう。
それでは戦国の世に織田信長の名を轟かすキッカケとなった戦「桶狭間の戦い」を
見ていきましょう。
桶狭間の戦いとは?
引用:wikipedia
そもそも桶狭間の戦いとは何なのでしょうか?
一言で言うと、「駿河・三河・遠江(静岡県と愛知県の一部)の3国を治めていた戦国大名
・今川義元の45000人(25000人とも)の大軍が、織田信長の治める尾張(愛知県の一
部)に攻め込み、
織田信長率いいる2500人の少数の兵が今川軍に勝利した戦い」のことです。
それにしても10~20倍の勢力に果敢にも立ち向かっていった織田信長って、
相当な人物だったのでしょう!
今川義元が織田信長を攻める目的は?
引用:wikipedia
今川義元は、当時三河の国の経営に成功し、東の敵、武田信玄と北条氏康と同盟を結ぶと、
西の隣国、織田信長を攻略にかかりました。
今川義元42歳。働き盛り、経験もあり、気力体力もまだまだ充実している年齢です。
今川義元は、治めて間もない三河の政治をより強固な物にするために、どうしても隣国の織田信
長の勢力をそいでいかねばなりませんでした。
また、今川家は足利一族の名家。足利将軍家が完全に途絶えれば、相続人を出すことが出来るお家柄。
戦国の世を治められない足利将軍に代わって今川家が政治を行おうという野望も持っていたのかも知れません。
そんなおり、織田信長をコテンパンにやっつけるべく、大軍を率いて尾張に向けて出陣したので
した。
その時の今川義元の出で立ちは、相当派手で立派な、まさに「戦国大大名」といった感じだったようです。
「鎧は胸白、兜は金の八龍を打った五枚兜、陣羽織は赤地に錦、太刀は今川家代々伝わる松倉
郷、脇差は名刀左文字、馬は青毛で鞍は金、鞍に書ける紐は紅。」
って、想像すると派手ですねえ!
対して織田信長はどうだったのでしょう?
当時の織田信長の状況を簡単に見てみましょう!
桶狭間の戦い直前の織田信長の状況は?
18歳で織田家を継いだ織田信長は、清州城を拠点に、尾張国(現在の愛知県の一部)を
統一したばかりの状況でした。
(実の弟との戦いなど、結構厳しい身内の争いも経験していました)
また、織田家の家臣達、特に父の織田信秀から仕えている古い家老たちからは、内心うつけ(馬
鹿者)と見られていて織田家が一丸となっている状況ではありませんでした。
(信長にしてみれば、うつけは敵を欺くために、あえてうつけの演技をしていたのでしょう)
実際、今川軍が徐々に攻めてきて、織田家では軍議が開かれるのですが、籠城か?出撃か?で紛
糾する家臣の間で、結局結論を出さず、軍議を解散し、老臣には呆れ顔されてしまいます。
(うつけの信長は、本心、老臣達の知恵のなさにうんざりしていたのでした。それすらも敵を欺くために利用しちゃっていますね。すごい!)
しかしながら、優れた若手の部下も多く、木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)や前田利家(加賀百
万石前田家の創始者)、森可成(槍の名手で森蘭丸の父)などと積極的に意見交換し、
またガツガツ指示を出しながら、来る今川軍との戦いに備えていったのでした。
木下藤吉郎(豊臣秀吉)は25歳の若者でした。
織田信長流、勝つための作戦・指示
具体的には、
●今川軍との戦いの最大のミッションを「大将の今川義元の首を獲る!」に決定!
●今川軍の動向を情報収集!(朝飯の状況から今川義元の所在を予測)
●地形をしっかりと把握!(地元の草のものからの情報をもとにする)
●天候もある程度、空模様から把握!(これも地元のものからの情報)
●敵撹乱作戦(本隊を相手に分からなくさせる作戦)を実行!
●熱田神宮で戦勝祈念!
●「敦盛」を舞う!→織田信長公の最高の舞は「幸若舞」の「敦盛」私はこう感じた!
●湯漬けを食べる!→織田信長公の桶狭間の戦い直前の勝負メシ「湯漬け」「焼き味噌」!
●籠城と見せかける作戦!
●砦を2つも今川軍に落とさせて油断をさせる作戦
と勝つための様々な伏線が引かれていました!
なので、偶然勝ったような説もあるのですが、やはりそこには勝つべくして勝った
シナリオがきちんとあったものと思われます。
さあ、それでは桶狭間の戦いの当日を見てみましょう。
今川義元対織田信長ファイト!
桶狭間の戦い!
圧倒的な兵力の差は歴然。
大軍、今川軍に少数の織田軍が挑むには、半端でない知恵が必要です。
どのような経緯を2つの軍勢はたどってきたのでしょう?
2つの軍勢が相まみえるまでの流れはこうです!
今川軍の動き
今川軍が織田方の2つ砦(鷲津山と丸尾山)を攻め落とし、幸先いいぞと
桶狭間でお昼休憩をしていました。
正に快進撃と言っていいほど順調だったので義元は、唄などうたっていたそうです。(余裕!)
食事内容も地酒にお刺身、ちょっと豪華な内容でした。
この戦いに徳川家康(当時19歳)も今川軍の先鋒隊として参加しています。
近くの大高城に兵糧を運び込む役目を任されています。
(しかし、戦国の3英傑が一同に集まるこの戦いは、天下統一レースのはじめの一ページ目として燦々と輝かしい
歴史を残したんじゃないかなって思います!)
今川義元も見張りを敷いていましたが、別の織田軍の部隊(木下藤吉郎隊)を本隊と見間違えていて、
織田信長の本隊が近くまで近づいてきているとは全く気づいていませんでした。
今川軍の大半は桶狭間にとどまり、今川義元自身は、ご飯を食べるため田楽狭間にいたのでした。
5月19日の正午前後の出来事です。
織田信長の動き
その頃、織田信長は、「少数の軍勢では勝ち目がない」と出撃を止めようとする家来に向かっ
て、逆に「少数の兵だからといって多数の敵を恐れるな!勝敗の運は天にある!」
と諭し、さらに「合戦に勝ちさえすればこの場に参加した者の家の名誉は末代までの
高名であるぞ!」と励むように発破をかけていました。
そして、田楽狭間に今川義元が昼飯を食べるという情報を得ると、田楽狭間を見下ろせる、太子が根の丘の
上に全軍(1500人ほど)を集合させました。
その後、織田軍の後ろから雨が降り、風がふき、対する今川軍には正面に風雨が打ち付けるような
状況になります。
このチャンスを逃すまい!と一気に今川軍本隊に斬り込む織田信長軍。一世一代の大勝負です!
戦いの火蓋は切って落とされました!
両軍激突!
午後2時ころ、桶狭間の戦いが始まります。
全軍合わせると45000人の大軍と言えども、狭間に軍を敷いていたため、実際に織田信長軍と戦えたのは
5000人程度だったと言います。
風向き、今川軍の連戦の疲れ、今川義元の油断、織田軍の勢い、などがすべて絡み合い、
織田信長軍が今川軍本隊を蹴散らしていきます。
しかし、今川軍も負けじと応戦していました。
戦が長引けば、戦力に勝る今川軍の有利になるは必定。
織田信長としては、早く総大将の今川義元の首を獲ること!
これに集中していました。
そこでなんと織田信長、自ら馬を降り、乱入していったのです。
火花を散らし、しのぎを削り、相当修羅場だったようです。
信長の家来も相当数討ち死にしています(1000人弱と言われています。半数近くですね)
そんな時、織田軍に服部春安現れ、今川義元を発見し、打ちかかります!
しかし義元、「海道一の弓取り」と異名を持つだけあって、武芸も嗜んでいました。
服部の膝を斬り倒してしまいます。
義元手強し!
その後、織田軍から毛利新介が襲いかかり、今川義元の顔を押さえつけ首を切ろうと振りかぶりました。
すると、今川義元、毛利新介の左手の指を噛みちぎったと言います。
すごい、最後の執念です!
指を噛みちぎられながらも、毛利新介は渾身の力で刀を振り下ろし、見事今川義元の首を切り落とすことに
成功します。
織田信長の最大のミッション完了!
「総大将・今川義元の首を獲る」コンプリートです!
こうして、実際の戦いは1時間ほどで織田信長軍の勝利で終了します。
桶狭間の戦い後
今川義元を失った今川軍は急速に衰退し戦国大名としての役割を数年後には終えます。
嫡男の今川氏真は、父親の仇を討つなどという行動を起こすようなタイプの男ではありませんでした。
そのようなトップの下から人は離れていったのです・・・。
一方、織田信長は、一時に信望を集めました。
織田の殿様をうつけというたは、誰ぞ!
うつけどころか、鬼神もよけて道を開けようぞ
と尾張の領民は信長を讃え、
織田家の家臣たちも、若い殿様の力量に恐れ入り、信長に服従するようになっていきました。
織田信長が桶狭間の戦いで得たこと
織田信長は、桶狭間の戦いで、自分が考えてきたことを実行し、
結果を出した!!という何にも代えがたい経験を積むことが出来ました。
そして、「尾張の国に織田信長あり!」とその名を日本に轟かせることが出来ました。
戦国時代は現在と同じく情報時代ですから、大きな戦の情報などすぐに広まります。
(伝えるのは忍者などですね)
その情報戦、印象操作に織田信長は優位に立ったということです。
この戦いの後、織田信長は天下を強く意識し始めたようです。
その後の織田信長の経緯は
まとめ
今川義元の尾張侵攻がキッカケで始まった桶狭間の戦いでした。
攻められる側の織田信長が、少数とはいえ、様々な行動を実行し、
強国今川家の総大将の首を獲るという、大どんでん返しをやってのけました。
戦国の世に鮮烈にデビューした織田信長。
この戦いは、織田信長に課せられた、試練とも言える戦いだったのでしょう。
天下を獲るために必要な儀式と言ってもいいと言えます。
それを見事にクリアした、織田信長。
その後の活躍は歴史が物語っていますよね。
キッカケというものを大事にしましょう!
ピンチは最大のチャンス!