最後の侍「河井継之助(かわいつぎのすけ)とは?

ジャン!

引用:wikipedia

若干いかついですねえ。背はあまり高くなく、目の色は鳶色(とびいろ)だったようです。目が座ってます!

河井継之助は、幕末に生まれ、長岡藩(今の新潟県長岡市)の家老(藩の幹部)を務め、藩の中立独立を目指しました。

しかし最終的には、幕末の新政府軍と旧幕府軍との戦争「戊辰戦争」において、旧幕府軍側の立場になり、新政府軍と戦っていく選択肢を選んでいくことになった人です。

「ラスト・サムライ」と呼ばれていたります!

関連記事:戊辰戦争をわかりやすく!新政府と幕府の最終決戦!

 

河井継之助は、大河ドラマや映画でも取り上げられているのですが、どんな人が演じていたのでしょう?

昭和52年の大村益次郎※を描いた大河ドラマ「花神」では、準主役として高橋英樹さんが演じ、平成11年のテレビ朝日のドラマ「最後のサムライ河井継之助」では阿部寛さんが演じ、平成17年の年末時代劇「河井継之助~駆け抜けた蒼龍」では18代中村勘三郎さんが演じています。

なかなか重量級な俳優さんが多いですね!

そして、2020年公開の映画「峠」では、役所広司さんが演じます!

渋いです!

※ちなみに「峠」は原作、司馬遼太郎さんの長編小説です!

 

 

今回は、幕末に抜群の存在感(当時)を示し、名優たちに演じられた「河井継之助」について見てみたいと思います!

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まずはじめに河井継之助の年表を見てみましょう!

基本情報からどうぞ。

河井継之助、年表!

年号 出来事 年齢
1827 長岡藩中級藩士の長男として長岡城下町に生まれる
1842 元服し秋義と名乗るが、幼名の「継之助」をそのまま用いた 15歳
1850 長岡藩主側近一族の娘、「すが」と結婚する 23歳
1852 江戸に遊学(他国へ行き勉学すること)する 25歳
1853 ペリー来航に対しての建言書が藩主の目に止まり城の役職をいただくが2ヶ月で辞職する 26歳
1855 11代長岡藩主への講義依頼を断る。

射撃の腕を上げる。

奥羽へ遊学する。

28歳
1858 家督を継ぐ 31歳
1859 江戸、佐賀、長崎、熊本、松山、横浜を遊学する。

備中松山藩の陽明学者、山田方谷の教えを請う。

32歳
1862 藩主が京都所司代そして老中に任命され、それについていく形で継之助も京都、そして江戸に行く。

分家の笠間藩主を罵倒してしまい、責任とって長岡へ帰る。

35歳
1865 藩の郡奉行(地方行政官・代官)に任命されると、藩政改革を行う。主に中央集権の軍政を断行する。 38歳
1867 徳川氏を擁護する建言書を議定所(朝廷の政治を評議する場所)に提出する。⇒反応なし

王政復古の大号令発令(新政府の政権が樹立する)

40歳
1868 徳川慶喜が大阪城から江戸に退くと、継之助も江戸に移動する。

戊辰戦争勃発

家老、軍事総裁に任命される。

江戸藩邸と家宝をすべて売却し、暴落した米の差益、新潟との為替差益で得た資金でガトリング砲等最新兵器を購入する。

小千谷談判決裂

北越戦争勃発

長岡城を奪い返す。

戦闘中の傷が元で死亡。

41歳

結構、日本全国、遊学していますねえ。

常に学びを得て、幕末の争乱期を生きていたことがわかります。

少しずつ紐解いていきましょう!

河井継之助の性格

一言で言えば「やんちゃで、気性激しく、負けず嫌い」だったと言えるでしょう!

若い頃、様々な師匠について学ぶのですが、ことごとく師匠に口答えをし、言うことを聞かず、自分勝手に行動してしまうのです。

逆に言えば自分の頭で考えて行動していたことの裏返しとも言えます!

 

その中には、蘭学や砲術を極めていた佐久間象山もいました。

継之助いわく、「佐久間先生はすごいが、気に入らない」ってことになるようです。

かなり上からの言いようだったのでしょうか?

 

とにかく良く言えば自分の考えをしっかり持っていますし、悪く言えば素直じゃなかったのでしょうね。

 

 

そんな中、唯一師匠と認めた人が、備中松山藩(岡山県)の陽明学者(実践を持って心理を求める学者)、山田方谷でした。

山田方谷(やまだほうこく)との出会い

継之助は、32歳で西国へ遊学に出るのですが、その際、備中松山藩(岡山県)で陽明学者だった山田方谷に会いに行きます。

※継之助は、17歳の時、生贄の鶏を割いて陽明学(実践をもって理を求める学問)を開いた王陽明を祀り、藩を支える名臣になることを誓っています。陽明学をさらに学びたいとの下地がありました。

はじめこそ、農民出身の山田を見下していましたが、山田が行った藩政改革の結果と、言行一致の振る舞いを見て、態度を改め、深く心酔していきました。(山田は、内政面と教育に関しては、抜群の才能を発揮した人でした。)

また、山田方谷は、JRの駅で唯一、人名がついた「方谷駅」でも知られています。

その山田から継之助に忠告が残されていますので見てみましょう。

山田方谷の名アドバイス

「改革は簡単なことからやりなさい」

「あなたは賢いが、それが災いとなるから気をつけなさい」

「業績や経済ばかりに関心があるようだが、本当に大事なのはそれではない」と。

 

しかし継之助はそんな心酔している師匠の言葉でしたが、なかなかその意図するところをきちんと実践出来たかどうか?結果を見るとちょっと怪しいですね。

でも、継之助は死の直前、山田師匠に対し、「先生にお伝え下さい!継之助は、今の今まで、先生の教えを守って来ました!」と備中松山藩の商人に言伝を頼んでいます。自分自身、頑張って教えを守ろうとしていたんですね!継之助、律儀です!

 

 

素直でないながらも、様々な人に学びながら、やがて自らが藩政改革をする立場になって行きます。

次に、継之助がやがて家老になって、どのような藩政改革を行ったのかを見てみましょう。

河井継之助の藩政改革

継之助の目的の基本は、生き残るために強い藩を作るぞ!ということでした。

 

まず、石高平均化という改革がありました。

石高平均化

 

石高が、100石に満たないものは上げ、100石より多いものは減らしたのです。

※石高とは、現代で言うと、家臣の給料のようなものです。

100石は現在の価値でいうと、130万くらいなものです。

関連記事:一石いくら?江戸・幕末の価値を表に!西郷隆盛の給料は?

これにより、特別力を持つ家臣を無くし、門閥(派閥のようなもの)の力を削ぎ、藩主の権力を強化したのでした。

これにより、高禄をもらっていた家老首座の稲垣氏は、2000石(2600万)から500石(650万)に減らされることとなり、相当継之助に恨みを持ったようです。でも、長岡藩を強くするためには我慢してもらわなければなりませんでした。

軍政上の中央集権化

また、上級家臣の軍における権力を減らし、藩主と、軍事総督(継之助)が強力な指導力を発揮できるようにしました。命令系統がスッキリとしたのです。

この仕組のおかげで、長岡藩は藩としての力を強大化し、新政府軍に対して、はじめ、互角の戦いを展開することが出来たのです。

※中央集権という考え方は、日本陸軍の父、長州藩の大村益次郎の考えもそうでした。

関連記事:大村益次郎は医者出身で維新十傑!西郷どんに登場!子孫は誰?

そして、必見はその装備!

装備の西洋化!

江戸藩邸や家宝、米の暴落につけ入る差益や(現代で言う転売ですね)、為替差益で相当な軍資金を得て、その装備を一新していきました。

以前より使っていた、槍や刀を一掃し、銃剣(銃の先に槍がついた西洋の武器)に統一するなど装備を強化していきました。

また、アームストロング砲(最新の大砲。上野戦争で新政府軍が旧幕府軍を壊滅させた武器としても知られています)、ガトリング砲(当時最新の機関銃日本に3台しかなかったうちの2台が長岡藩に)など、取り揃えていました。

 

これらの武器が、新政府軍と互角に戦えた要因なのです!

 

逆に、民衆に揶揄された改革がありまして、ご紹介しておきましょう。

風紀粛清から生まれた名言(迷言)

継之助は、遊郭(遊女がいる区画の事)の廃止や、畜妾(妾を持つこと)の禁止を命じています。

 

しかしながら、当の継之助が相当派手に遊女と遊んでいたこともあり、「ええ!あの河井継之助が!?」と当時の人々は驚いたということです。

かわいかわい(河井)と今朝まで思い、今は愛想もつきのすけ(継之助)」と継之助を揶揄する歌が詠まれました。

「上手い!!」と拍手してしまいそうになりました。要は、自分の事は棚に上げて何?ってことです。

立場変わればなんとやら。自らの道を行く、ですかねえ。山田方谷の忠告(大事なことは何?)は守られていなかったようですね?!

 

藩政改革を行った後、結局中立が守れず、新政府軍と戦うことになる長岡藩ですが、どのような流れで戦争に向かったのでしょうか?

見てみましょう!

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河井継之助と戊辰戦争(北越戦争)

はじめは河井継之助も中立の立場で、戦争を推奨していたわけではありませんでした。

軍事力を強めていったのも、他力に頼らず、己の力で生きていくということを訴えて行ったことからの行動でした。

しかし、新政府軍の軍監、岩村精一郎との和平交渉の決裂によって戦争へ突入していくのでした。

その和平交渉、「小千谷談判」について見てみましょう。

小千谷談判での交渉決裂での鋭すぎる名言

長岡藩河井継之助としては、官軍で大義のある新政府軍と、恩義ある旧幕府軍。両者が和解することが最善と考えていました。

そこで、両者の「仲介役」として、長岡藩の河井継之助が、会津討伐を目指す新政府軍の代表・岩村精一郎と会って、和平交渉を行ったのです。

これが行われたのが新潟の小千谷にある慈眼寺でした。

この会談で、継之助は、賢すぎるかつ、本質に迫る鋭すぎる問いを岩村に投げかけます。

あなた方が真の官軍ならば、恭順してもよいが、討幕と会津討伐の正当な理由はなにか?本当は私的な制裁や、権力奪取が目的なんだろう?長岡領内の侵入と戦闘は断る」と鋭すぎる問いかけと、正しすぎる正論に岩村は全く反論が出来ないでいました。

完全に継之助が岩村を「論破」してしまったのです。

交渉は決裂します。

さらに、新政府軍側より、兵士と軍資金を提出するように!という命令も継之助は黙殺します。

 

この態度に新政府軍も黙っておられず、長岡藩に対して戦争を仕掛けると行った結果になってしまうのです。

これが、戊辰戦争の中でも最も激しい戦いとなった「北越戦争」の始まりでした。

 

北越戦争勃発

長岡軍は、藩政改革によって、最新式の武器と、近代的な兵を取り揃えていました。

なので、はじめは相当ある軍事力の差もなんのその、新政府軍と互角に戦っていました。

しかし、時間が経つにつれ、圧倒的な軍事力の差がじわりじわりと現れてきました。長岡軍は徐々に押されはじめ、遂に本拠地長岡城を奪われてしまいます。

さらに、長岡の民衆の世直し一揆(反乱)が起こり、継之助達は一揆の鎮圧に力を削がれて、思うように新政府軍に勢力を向けることが出来ずにいました。

河井継之助の反撃

しかし、諦めない継之助はなんとか体制を立て直します。長岡城の裏手、八丁沖から奇襲をかけ、辛くも長岡城を取り戻すことに成功します。

すごい執念ですね!

この執念が成功に導いてくれるか??ってそうは問屋がおろしませんでした。

 

この奇襲攻撃の最中に継之助は左足に流れ弾を受け、重症を負ってしまうのです。ううう!

これにより、兵士のモチベーションが一気に急落します。

 

新政府軍はここぞとばかり反撃を開始!長岡城は再び新政府軍の手に落ちてしまいます。

継之助は、怪我をしたまま会津に落ち延びるしかありませんでした。

 

かなり無念だったでしょうね!!!

新政府軍の岩村からしたら論破された悔しさをここで晴らすことが出来、「ざまあみろっ」て感じでしょうか?

河井継之助の最期の名言(辞世の句)

負傷した脚を引きずり会津へ向けて敗走する継之助でしたが、「八十里峠」という峠でこんな句を詠んでいます。

「八十里腰抜け武士の越す峠」。

結局、自らの選択した言動が、ことごとく裏目に出てしまい、結果、こんな惨めな状態になったことに対しての自嘲の句です。

情けなかったでしょう!長岡の町は守れず火の海に!長岡城は敵の手に!最終的には完全敗北になってしまったのですから。

 

峠を越して、会津領の只見村で休息中、医者の松本良順(征露丸のロゴの顔写真のモデル)の治療を受け、良順が持ってきた牛肉を平らげるという元気な一面も見せ、一見復活するのか?と見えもしました。

が、すでに傷は破傷風により手遅れな状態まで進行していたのです。

死期を悟った継之助は最期、長岡藩士の外山脩造(後の阪神電鉄初代社長)に武士を辞め商人になるように指示したり、長岡藩主の子供にフランスへ亡命するように指示したり、自分を火葬にするようになど指示し、談笑の後危篤状態に陥り、そのまま帰らぬ人となりました。41歳でした。

 

最後に河井継之助の生き方を見て名言を編みだした現代人がおりますのでご紹介します!

 

それは?「林修」さんの「いつやるか?今でしょ!」です!

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林修の「いつやるか?今でしょ!」の名言のルーツは河井継之助!

予備校教師でタレントでもある「林修」先生。

その林先生の口癖に「いつやるか?今でしょ!」という言葉があります。

 

このフレーズが生まれた直接的な背景は、予備校時代に現代文を理解するために漢字を勉強することが重要であるにもかかわらず、漢字を勉強しない生徒に向けて言ったことが背景だそうです。

 

河井継之助は、「常在戦場」という言葉を用いていたようですが、林先生はその言葉を次のように解釈していたようです。

自分の出来ないこと、運命としか言いようがないことは仕方がない。今戦場で出来ることはなにか?チョット待ってくれとは言わないですぐにやる!その瞬間やれることをやり幸運を逃さないようにすべき!

というように解釈していました。

林先生の名言のルーツともなった河井継之助!現代にも多大な影響を与え続けていますね!すごい!

ちなみに2013年「流行語大賞の年間大賞」を受賞しました!わわわわ!

河井継之助の本の読み方

もう一つ、林先生の本を読む姿勢も、実は河井継之助が手本となっているようです。

河井継之助は、「漫然多読するも、何の益あらん。読書の功は細心精読するにあり」と言っています。

要するに、本をじっくりと読み込むことが読書の益であり、功である!という意味です!

林先生もしっかりと勉強方法に取り入れていったのです。

現代にもしっかりと受け継がれている!素晴らしいです!

 

最後に

最後のサムライと呼ばれる、時代の風雲児について見てまいりました。

性格はなかなか言うことを聞かないやんちゃくんだったりします。

藩政改革をきっちり行ったり(風紀粛清はご愛嬌?)、北越戦争では、新政府軍に対しはじめ互角の戦いを演じてみたり、

林先生の名言のルーツであることなどを紹介しました。

 

河井継之助が生きていたら、どんな世界が待っていたのだろう?

なんて勝手に想像しちゃうのも楽しいものですよ!

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