西郷隆盛の3人目の妻、岩山糸(糸子/イト)をご存じですか?
引用:Wikipedia
大河ドラマ「西郷どん」では黒木華さんが演じています。
ドラマ初回の冒頭の場面で、夫の西郷隆盛の銅像の除幕式のシーンが有るのですが、
銅像を見て、「ちごっちごっ(違う違う)」と糸が叫ぶのですが、とても印象に残っています。
なぜ違うと叫んだかはこちら→上野の西郷隆盛の銅像を糸が違っと言った原因は服装にあり!
(過去の大河ドラマでは「翔ぶが如く」で田中裕子さんが演じていました。)
西郷隆盛の3人目の妻になった糸とはどんな人物か?
(夫西郷隆盛がどんな人かはこちらをご参照ください→西郷隆盛の年表を簡単解説!西南戦争の理由とは?!
今回は、糸の生涯と、その親戚に武豊がいたってことについても触れたいと思います
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岩山糸・西郷糸(糸子、イト)ってどんな人?
生まれ~最初の結婚
1843年、薩摩藩士(城下上町地区)、岩山八郎太直温と栄の娘(次女)として産まれます。
西郷隆盛が数え年で17歳の時ですね。
(大河ドラマ「西郷どん」では同年代で描かれていますが、史実は17歳ほど離れているわけです)
大河のことならこちらの記事をご参照ください⬇
その後、寺社奉行添役の海老原重勝と結婚するが、離婚してしまいます。
あまり糸自身が乗り気ではなかったところもあるのでしょう。
西郷隆盛と再婚
薩摩藩士、有川矢九郎(三邦丸、胡蝶丸の艦長)の紹介により、有川矢九郎の妻のいとこにあたる「糸」は、
西郷隆盛と、1865年に薩摩藩家老、小松帯刀を媒酌人として結婚します。
西郷37歳、糸21歳の頃でした。家格は同格。
当時の西郷隆盛は軍の参謀として、禁門の変や長州征伐の対応などで超多忙で、結婚式は慌ただしい中おこなわれたようです。大河では恋愛の末結ばれる感じですが、実際は、薩摩軍の参謀に妻がいないのは体裁良くないと半ば強制的に結婚したのでしょうかね?
糸は西郷隆盛の最後の妻となります。
糸にしても突然の成り行きで驚いたのではないでしょうか?
何と言っても薩摩軍の大将です。その人を支えていくって結構覚悟が必要だったのでは?
糸と西郷家
ここでちょっと糸についての豆情報コーナー!
糸は、150センチくらいの小柄で華奢な娘だったようです。
なるほどなるほど。
片や西郷は180センチ、100キロ超の大男。二人並べば糸はなおさら可愛らしく見えたでしょうね。
確かに。
戻りましょう。
西郷家の当時の住まいは鹿児島城下上之園町にある借家で暮らしていました。
次男吉二郎(31歳)と妻のマスと子2人、4男小兵衛(17歳)と熊吉はじめ使用人が同居していました。
三男従道は京都に、妹の琴、安、鷹は嫁いでいてすでにいませんでした。
西郷隆盛の兄弟についてはこちらをご参照ください→西郷隆盛の弟・妹は何人?わかりやすく図・年表でご紹介!
そんな中、糸は嫁いできます。
夫西郷は仕事で1年に1ヶ月くらいしか家にいませんでした。
実質家長として西郷家を守ってきたのが、吉二郎夫婦です。
穏やかで優しい吉二郎は10歳も年下の糸を「姉さぁ」と呼び長男の嫁として立てたといいます。
糸もそんな雰囲気の西郷家なので、上手く行っていたのでしょうね!
坂本龍馬からみた西郷夫婦
坂本龍馬といえば、薩長同盟を仲介し、明治維新成立に貢献した幕末の志士ですが、
ある時、西郷家に坂本龍馬が寄った際、こんなことがありました。
西郷家は粗末な作りの借家だったため、天井から雨漏りをしていました。
その有様に耐えかねた糸が「お客様が来られると面目が立ちません。雨漏りしないように屋根を修理して欲しい」と夫西郷にお願いをしました。
すると西郷は、「今は日本中の家が雨漏りしている。我が家だけではない」と言います。
この話を隣の部屋で聞いていた坂本龍馬はひどく感心したようです。
さらに、翌年坂本龍馬は姉に出した手紙にこう書き記しています。「西郷吉之助(隆盛)の家内(糸)も吉之助も大いに良い人なれば、この方に妻(お龍)など頼めば何も気づかい無し」と。
坂本龍馬は西郷夫婦を完全に信用していた事が伺いしれますね。
糸は、こうして西郷の良き妻として生けることが証明されとともいえます。
糸は西郷の子どもを3人産む
それでは母としてはどうでしょう?
糸は多忙を極める夫西郷となかなかじっくり生活をする暇がなかったようでしたが、鹿児島に帰ってきたときには、しっかり愛を育んでいました。
その愛の結晶が3人の子どもたちです。
糸が23歳の時、長男、寅太郎が産まれます。
27歳で次男午次郎。
30歳で酉三。と全員生まれた年の干支から名付けられています。
3人の男子を産みます。
大西郷の血を受け継ぐものたちです。
糸、でかした!
ちょっと安易な名前つけかもしれませんが、皆立派に育っていきます。
戊辰戦争の悲しみ
しかし、いいことばかりではありません。
しかも時代は幕末、激動の時代。
新政府軍と旧幕府軍との最後の戦いを戊辰戦争が起こります。
夫西郷は新政府軍側として戦争に参加します。
次男吉二郎も。
各地で激戦が繰り広げられ、その渦に巻き込まれ、次男吉二郎が新潟で戦死してしまいます。悲しい、。
長年西郷家を支えてきた吉二郎が亡くなってしまい、西郷も糸も悲しみにくれたことでしょう、、、。
ちなみに夫西郷は、開戦直後、この戦争が終わったら隠居すると糸に書簡で伝えています。
実際戦後鹿児島に戻りますが、上之園の家に戻るのではなく、温泉での湯治に明け暮れたようです。
糸も、夫西郷のメンタルが身体の大きさに比べて繊細なのを知っていたのでしょう。
知っててそっとしておいたのでしょうね。
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武村への引っ越し
その後、上之園の借家から西郷が購入した武村の屋敷に引っ越しします。
この頃は、西郷も藩の参政(藩の政治の最高責任者)の役職を任されていて、お給料も結構貰っていたのでしょう。この頃、若い頃の借金200両を豪商板垣に返していますね。20年位経っていますけどもね。
暮らし向きも良くなって行ったことでしょう。
少なくとも雨漏りは無かったでしょうね。
そして、西郷隆盛2番目の妻愛加那との子ども、菊次郎(8歳)を武村の屋敷に引取、一緒に暮らしています。
糸(26歳)は自分の子ども寅太郎(3歳)と西郷の前妻の子どもも一緒に育てることになります。
糸のことですから、多少は抵抗がありつつも受け入れ、自分の子どものように育てたことでしょう。
隆盛が菊次郎を連れて東京に行くまで、実際1年半くらいは一緒に暮らしていました。
夫が明治政府の役職
夫西郷隆盛はその後、明治天皇勅命で明治政府に入ります。そして天皇の西国巡幸(人心掌握、威厳を示すイベント)に付き添うという天皇をある意味、教育する立場になっていました。
糸も、夫がどんどん出世し、日本の重要な仕事を任されていることに対して、誇らしい気持ちでいたでしょうか?
しかし、どんなに夫が出世しても、糸は質素な身なりで来客には使用人に間違えられる事が多かったようです。
そして面白いことに、糸は間違えられたまま対応しちゃうんですね。もうちょっときちんとしてもバチは当たらないと思いますけどねえ。でも、そこがいいところなんでしょうね。
夫が鹿児島に帰って来る
夫西郷は、征韓論という政治論争に負け、鹿児島に下野します。この時も温泉めぐりをし、犬と兎狩りしたり、農作業したり、皮膚病を湯治したりして過ごしています。糸が住む武屋敷には帰らず、自由に暮らしています。
糸は、こんな夫を屋敷から大きな器で見守っていたのでしょう。
なんて出来た奥様でしょう。糸、身体は小さくても心は大きかったんですね!
また、この頃前述の愛加那の間に生まれた二人目の娘、菊草(12歳)を引き取っています。
何人でもござれって感じです!
最初で最後の大家族旅行
1875年10月、夫西郷は、家族と親戚で3週間、日当山温泉に旅行に出かけています。
西郷(47歳)と糸(32歳)寅太郎(9歳)午太郎(5歳)酉三(2歳)吉二郎の子どもや、糸の母親達も一緒だったようです。
政治や戦争などから遠くはなれた場所で、本当に良い思い出を西郷家はつくることが出来たのではないでしょうか?紅葉も楽しんだのでは?
子供と遊んだり、ぼんやり考え事をしたりしている夫西郷を、糸はどんな気持ちで見ていたのでしょうか?
きっと、母性溢れる心で見守っていたと思います。
想像するとほんわかします。
西南戦争
薩摩私学校の熱き士族たちに担がれて西南戦争がはじまります。
2月17日雪の日、和服で袴姿で夫西郷は家を出ていきました。
見送った糸はどんな気持ちだったのでしょう?
はじめ西郷は東京へ行って大久保利通になんとか話をつけようとしていたようなので、
西郷からは、悲壮感はそこまでなかったのかもしれません。
でもきっとうすうす糸は分かっていたのではないでしょうか?
これが最後の別れだと、、。
その後敗退を続けた薩摩軍と攻める政府軍とが鹿児島で戦争を始めると、糸達は武村の屋敷から20キロ離れた女中ヨシの家、次に城山から10キロ離れた西別府の拘地(かけじ、農小屋)に避難しました。
夫西郷が城山の洞窟にこもっていることを知った糸は、新しい着物と帯を使用人の熊吉に渡し届けさせます。
武士として、最後はきちんと整った格好でいさせたい!という糸の魂こもった願いでしょう。
沈痛の思いが伝わってくるようです。
そして夫西郷は9月24日自害し、翌日糸はその事実を知ることになります、、、、、。
西郷49歳、糸は34歳でした、、。
賊将の妻としての対応
日本最後の内戦が終わり、夫西郷隆盛は反乱軍の将として、扱われました。
そんな夫の残した家族を何とか救おうと家族、親戚が手を差し伸べます。
まずは夫西郷の弟、従道の妻、清子の父の得能良介が、香典で700円(現在の1000万円相当)をおいていきます。
さすがに糸も受け取れず、丁重にお返ししています。
その時の文書にはこう書かれていました。
「夫は戦死し家屋道具類は皆焼失したゆえ、思し召しは重々かたじけなけれども、夫存命中に開墾したる土地もあり、差し向き暮らし方に差し支えることもなし。また後日にお願い申す筋もあらん」
賊将の妻ということで相手に悪影響が及ぶのを気にしたか?夫西郷の味方をしなかった従道を憎んでいたのか?
ちなみにこの時お金を返されて困った得能が、代わりに贈ることを思いついたのが、イタリア人キヨッソーネに書かせた有名な肖像画でした。
引用:Wikipedia
それから、西郷従道により西南戦争で焼けてしまった武村の屋敷が再建されます。
この時、建築資金の申し出を糸は断ったため、従道はやむなく弟小兵衛の子供名義で申し入れることにしました。
糸さん頑固ですねえ。
その頑固さは、夫を亡くし、夫に賊将の汚名を着せられては、仕方ないと思います。
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夫西郷の赦免
西郷が亡くなってから12年経ちました。
糸も46歳になります。
1889年、大日本帝国憲法の発布にあわせて夫西郷隆盛の罪が赦されることになりました。
良かったです!ようやっと!
長男寅太郎と武家のつながり!ここに武豊との接点あり!
夫西郷隆盛が赦されてから、7年後のお話です。
1896年、長男寅太郎(30歳)が結婚し、糸は鹿児島から、東京牛込区(現在の新宿)にある寅太郎邸に身を寄せることになります。
寅太郎の結婚相手は信子と言いますが、信子の父は園田実徳。その弟の名前が武彦七と言います。
園田実徳と武彦七の父は薩摩藩士、園田彦右衛門です。
西郷家も武家ももとは薩摩藩士、武士だったのです。
そして武彦七のひ孫がなんと、名ジョッキー武豊なのです!
西郷家との縁。
武豊と西郷隆盛は親戚だったことが判明しました!
何とも言えないロマンを感じてしまうのは自分だけでしょうか?!
武もルーツは薩摩武士。
胸が熱いです!
糸の晩年
糸が55歳の時、夫西郷の銅像除幕式が上野で行われます。
これの時起きたのが、冒頭にもご紹介しました、「銅像違う」事件です。
その後、子どもたちが次々と亡くなっていきます。
1903年三男酉三30歳の若さで亡くなります。結核でした。
糸は60歳です。
1919年には長男寅太郎が52歳で亡くなります。スペイン風邪でした。
糸は75歳です。
子どもたち、なんで親より早く逝ってしまうの????
糸は悲しくてやりきれなかったと思います、、、、。
糸は最後残った次男の午次郎の家に住み移ります。
糸はいつも唐芋粥を幸せそうに食べていたそうです。
きっと、鹿児島の武村の屋敷の生活など思い返していたんでしょう。
糸の幸せそうな表情が目に浮かぶようです。
そして79歳で質素を貫き通したその人生を終えます。
最後に
西郷隆盛最後の妻は、夫に先立たれ、子供に先立たれ、結構厳しい人生を歩んできています。
そんな中でも、夫西郷を支え、子どもたちを立派に育て上げたことは素晴らしいことです!
糸がいたから西郷も思い切って仕事に没頭出来、明治維新を成立することができたと言えるのではないでしょうか!