戦国時代をこよなく愛する激務ファミレス店長、南昌幸の

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「関ヶ原」についての簡単な解説は、『関ケ原の戦い!合戦に至る経緯を分かりやすく5分でまとめました!映画「関ケ原」を10倍楽しめます!』をご覧ください。

映画関ケ原公式サイト

 

今回は、「三成に過ぎたるものが2つあり 島の左近に佐和山の城」で有名な

佐和山の城を調査していきたいと思います!

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佐和山城の歴史

お城のイラスト(日本)

はじまりは鎌倉時代、近江守護職佐々木氏が砦を築いた事が佐和山城の第一歩です。

その後戦国時代に入ると支配は浅井氏丹羽長秀公堀秀政公堀尾吉晴公

そして石田三成公の支配となります!

すごいいろんな武将が入れ替わり立ち替わり支配していますね!

 

石田三成公と佐和山城

石田三成公は、関ヶ原後のことも考えて、かなり大きく改修を加えました!

 

3層とも5層とも言われる天守がそびえ立つ本格的な山城を築いたと言われています!

 

でもその実、城へ踏み入れるとなかなか質素な作りで、豪華絢爛の秀吉公が普請した

三成公が仕事で通っていた伏見城などとは全く真逆の造りだったようです。

 

例えば、居間は板張り、壁は粗壁、手水鉢は粗末な石、、と言った感じですね!

 

「利」でなく「義」の世の中に変えたい!!!といっていた三成公の人柄

目指すべき心得が城の普請にも現れていたのではないでしょうか!

 

三成公は、城主とは言え、豊臣秀吉公に仕えていたのでほとんど佐和山にはおらず

父の石田正継公が代わって城代として治めていました。

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関ヶ原後の佐和山城

三成公が敗北してからは、あの小早川秀秋公が攻めこみます。

 

石田三成公の父と兄が中心となり2800人の少数の精鋭が東軍小早川秀秋公はじめとする

大軍を防戦していきますが、大阪からの援軍が実は裏切りで、それを機に一気に東軍の兵隊が城内になだれ込み

石田郡は壊滅!落城します、、、。

 

関ヶ原後はこの城で最後の戦いをする!といって作られた城は、あっけなく崩れ落ちてしまったのです。

その後、徳川家の井伊直政公が入り、彦根城が築城されるとともに、廃城となります!

 

現在の佐和山城

佐和山の天守跡からは彦根城が見下ろすようにはっきりと見えます!

 

その風景をみると時代の流れ、時の儚さを感じないわけにはいきません、、、。

 

400年前の風景を想像しながら探索するのも乙なものです!

 

石垣は、天守の石垣が少しだけ残っているだけで、ほとんど彦根城などに移設されています。

その石垣をみるだけでも当時を偲ぶことが出来るのは何故でしょう!!

 

また麓には井伊家の菩提寺で「庭の寺」としても知られる龍潭寺があります。

(浜松にある龍潭寺の分家です)

(造園学の元祖だそうです!)

(ふだらくの庭という石庭は必見です!)

近くには石田三成公の屋敷跡もありますので、ここで、妻の皎月院、6人の子供達は暮らしていたのかと

思うと胸が締め付けられます!

石田家の子供達のその後もご紹介していますのでコチラをご覧になって下さい⇓

映画「関ケ原」石田三成公の6人の子供の行方を追ってみました!北政所の言葉「三成の血は残したほうがええ」の結果は?

 

ちなみに近くの清涼寺は井伊家の菩提寺ですが、かつては島左近公の屋敷があったところだそうです!

この清涼寺には島左近公の7不思議があるといいます!

参照:佐和山城下,島左近公屋敷跡の清涼寺に伝わる七不思議をご紹介!

「武士の夢 佐和山」

佐和山城基本情報

所在地滋賀県彦根市古沢町1100(龍潭寺の住所)
電車JR琵琶湖線 「彦根駅」 下車 徒歩 龍潭寺まで25分

(レンタサイクルで10分ほど)(1.5キロほどです)

 名神高速道路・彦根ICから10分。
駐車場普通車 20 台
大型車 5 台(龍潭寺の駐車場です)(無料です)
入山注意点簡単な登山に近いので、しっかりとした靴は必須です!
 地図
お薦め宿

佐和山城に一番近い宿です!

 お薦めお土産

近江牛を使ったおせんべえです!

滋賀県観光公式サイトhttps://www.biwako-visitors.jp/eat/

まとめ

「三成に過ぎたるものが2つあり 島の左近に佐和山の城」

の佐和山城について調べてきました。

石田三成公の夢は破れてしまうけれど、義を重んじる性格は城にも

ありありとにじみ出ていました!

是非、佐和山へ行って400年前の武士の夢を想像してみるのも良いかも!!

 

石田三成公に興味を持たれた方は、以下の記事も楽しめる内容になっておリマス!