薩英戦争
幕末に起きた、薩摩(鹿児島)と英国(イギリス)との戦争のことです。
引用:Wikipedia
日本の一つの藩と、当時海軍は世界最強と言われたイギリスが、戦った戦争のことです。
それだけでも、ありえないような話ですよね!
しかもなんと、そのイギリスと引き分けたっていうからさらに驚きですよ!
今回は、きっかけとなる事件、生麦事件ってどういう事件だったのか?
勝敗は引き分けだったって本当に本当なのか?
これらの疑問について見ていきたいと思います!
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きっかけは生麦事件!
きっかけは生麦事件でした。
どんな事件?
関係者の対応は?
イギリスは?
江戸幕府は?
天皇と民衆は?
当時の天皇孝明天皇は、大の外国嫌いでしたから、官位も何も持っていない、一薩摩藩藩主の父でしか無い久光に対して、「よくやった!」と大絶賛です!
また、帰り道の街道に住む民衆たちも、大喝采です!「さすがは薩摩様!」と。
みんな外国嫌いなのですよ。(鎖国を破り、乗っ取られるのではないかとイメージが悪かったのです)
そして、イギリスは、2つの要求をしてきます。
生麦事件の薩摩に対する2つの要求
怒ったイギリスは次の要求を幕府と薩摩藩にしてきます。
幕府へ
①10万ポンドの賠償金
②謝罪
これは、途中徳川慶喜の反対があって支払いが延期になる事態も生じましたが、最終的に老中の小笠原が独断で支払らってしまいます。
薩摩藩へ
①2万5千ポンドの賠償金
②犯人の処罰
幕府は支払った賠償金を薩摩は完全に拒否します。そして当然犯人の処罰も拒否!
だって、日本の法律的に悪いこと全くしていない、っていうのが言い分で、其のとおりだと思います!
さあ、この薩摩藩の対応にイギリスは納得行きません。
イギリスのニール提督という責任者は、横浜に軍艦7隻を集結させ、薩摩と直接交渉のため、戦争も辞さない感じで、薩摩へ向けて進軍します。
当時世界最強と恐れられたイギリス海軍、薩摩をひれ伏させるために出発します。
ここからはじまるのが薩英戦争です。
それでは、薩英戦争がどういう展開をして、最終的に引き分けになった流れを見ていきましょう!
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薩英戦争
薩摩の錦江湾に攻め込んだイギリス海軍達。
引用:Wikipedia
再度要求
まずは賠償金と犯人の処罰を要求します。
しかし、薩摩としては、世界最強の海軍が来ようが、脅しをかけられようが、責任がないものはないと
言うしかなかろう。というスタンスで、再度要求を拒否します。
これだから、薩摩って好き!
かっこよすぎます。
こんな教えも脈々と受け継がれていたのではないでしょうか?⬇
島津4兄弟長兄義久の教訓に斉彬、西郷も影響?現代にも使える?
自分だったら世界最強とかいう名前で折れちゃうかも?って思います。
交渉決裂です!
スイカ売り奇襲未遂
薩摩の方たちは、さらに、凄い行動をおこします。
スイカ売りに変装して、艦内に潜り込み、奇襲をかけようと計画するのです!
しかも、その実行犯、誰だと思います?
何を隠そう、先の生麦事件の殺傷した張本人、奈良原喜左衛門と海江田信義(有村俊斎)ですよ。
どんだけ~って。命知らずですネ。
ほとんどが艦内に潜り込めず奇襲は失敗におわりますが、発想や度胸は凄いなって思います!
戦争勃発
まずはしびれを切らしたイギリスが薩摩の蒸気船3隻を掠奪します。
(ここで大阪経済界の重鎮五代友厚や、電気通信の父寺島宗則はイギリスの捕虜になっています)
(さらに、のちの総理大臣で関東大震災を77日で収束させた、山本権兵衛は10歳で参陣しています。彼の故郷下加治屋は西郷隆盛と一緒の地域です)
それをみて、薩摩隼人はいきり立ちます!
大砲を準備して待ち構えていた薩摩藩は、軍艦向けて大砲を撃ちまくり。
ここに、薩英戦争の火蓋が切って落とされるのです。
とにかく蒸気船3隻捕られた薩摩藩は、大砲で軍艦を撃ちまくります。
武器の優越はイギリス側に分があったものの、悪天候で暴風雨による浸水や、
イギリスが気付いていない大砲がもろにあたったり、旗艦の艦長と副艦長が戦死するなど、薩摩軍の有利に戦局は進んでいきました。
一方イギリス側も、鹿児島市内や集成館(近代工場群)をガンガンい大砲ぶっ放し、破壊し続けていきました。
鹿児島市街地の10分の1は焼失するくらいの凄まじさでした。
さすがは世界最強!
結果は?
2日間に及んだ戦争は、燃料や弾薬の消耗により、イギリス海軍の撤退によって終了しました。
両者ともに被害は結構ありました。
損害対象 | イギリス | 薩摩 |
死者 | 20人 | 10人 |
負傷者 | 50人 | 9人 |
軍艦、砲台 | 軍艦3隻 | 砲台8門 |
その他 | 武器弾薬燃料大量消耗 | 市街地10分の1焼失 |
※死者はすこぶる少ないです。鹿児島に住んでいる人たほとんど避難していた事がその要因です。
一概に勝敗はつきにくいかもしれませんが、お互いの被害を比べると、互角と言っていいでしょう!
海外の評価
この戦争によって、小さな島国の小さな藩が、世界を股にかける大英帝国との戦争に引き分けたいうニュースは世界に衝撃をもたらしました。
アメリカのニューヨーク・タイムズは「日本は勇敢で、西欧の戦術にも長け、侮れない」と紹介しています。
久光凄いよ!
戦後処理
結局勝敗がつかず、賠償金の問題も犯人の問題も何も解決していませんでしたね。
最終的には、賠償金は、幕府から借りて、イギリスから2万5千ポンド相当の軍艦を購入することで決着。
(幕府から借りた2万5千ポンドは、借り倒しちゃいました。薩摩藩、腹座っていますね借金踏み倒すはお手の物?調所広郷が藩の借金踏み倒し?奄美黒砂糖で錬金術改革?!)
犯人は「逃亡中」ということでウヤムヤになりました。(これまたうそがうまい!スイカ売りに変装してたよね?うそも方便)
最後に
ということで、薩英戦争見てきました。
本当に引き分けと言っていい戦争でしたね。
これも薩摩の人達の、正しいと思う道を貫き通す強さが、これを実現したのかなって思います!
現在を生きている私達にも学べる部分がたくさんありますね!