「桂小五郎」、後半の名を「木戸孝允」、明治維新には無くてはならないお人です!
維新三傑(他の二人は西郷隆盛、大久保利通)と後世まで言われているぐらいですから。
※他にも名前多々あり!
そして写真、渋いですね!イケメンだなあ。
大河ドラマ「西郷どん」では、玉山鉄二が演じます。
キャストもイケメンです!
それから、剣豪でもありました。
どんだけ強かったのか?
今回は、そんな魅力の詰まった桂小五郎、またの名を木戸孝允について見てみたいと思います!
桂小五郎(木戸孝允)青春時代
天保4年(1833年)6月26日(8月11日)に長州萩(今の山口県萩市)にて医者の息子として生まれます。
その後、7歳で武士の家に養子に出されます。
ここで「桂小五郎」と名乗ります。
いたずら好きで、舟を転覆させるいたずらなど結構な悪ガキだったのです。
船頭に怒られ、頭をたたかれても、血を流しながら笑っていたと言いますから、肝が座っていますね!
病弱ではありましたが、センスがあったのでしょう。
吉田松陰には兵学を(事なすの才ありと評価される)学び、
剣術をはじめは柳生新陰流を教わっていて、さらに、長州藩の殿様からは、試験が優秀で2度も褒賞を受けています。
中でも剣術の実力が特に長けていて、江戸への剣術修行を名乗り出て、受理され、神道無念流、練兵館に入門し、メキメキ実力を
つけていきました。
19歳の若かりし日のことです。
1年で塾頭、5年間それを勤め上げ、江戸に名を轟かせていました。
キラキラ輝いていた青春時代ですね!
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開国、新国家設立へ向けて学びと行動時代
ペリーの黒船が来航して西洋の文化に刺激を受け、西洋の技術などを積極的に勉強し、吸収して行きます。
この時代の学びが新国家、明治維新の大政治家になる桂小五郎(木戸孝允)の下地を作り上げることになります。
具体的には、英語、造船術、西洋兵学などですね。
そして、長州藩の中心人物となっていくのです。20代半ばから30にかけての精力みなぎる時代ですね!
政局、戦争に巻き込まれた潜伏時代
尊王攘夷派の長州藩は、実際に外国艦隊と戦争をし、ボロ負けします。(下関戦争)
そして外国と戦ってはならないと身を持って知ります。
天皇中心の国家を作りたいと長州藩は考えて行動していたのですが、過激すぎるため
孝明天皇から嫌われていきます。長州藩の片思い。
天皇に嫌われていった京都の長州勢力は、八月十八日の政変(長州派の公家が京都を追われる事件)、池田屋事件(新選組による尊王攘夷派の粛清)が起こり、かやの外へ追いやられようとしていました。
桂小五郎は、池田屋事件では、たまたま池田屋の外にでて他藩の藩士と話をしていて間一髪のところで命拾いしました。強運!
その後、長州藩は、起死回生を狙って、武力により長州藩の地位を回復しようとします(蛤御門の変)が、結果、失敗します。
この時、桂小五郎は武力での行動は反対でしたが、熱い長州藩士の行動は止められず、止む無く陰ながら他藩の応援を画策したり、孝明天皇に直接談判しようと試みたりしますがそれら全て叶わず断念。
燃え盛る京都の街を背に、神道無念流の剣術を頼りになんとか負けいくさを切り抜けることに成功します。
31歳のことでした。
あとは名前を変えながら、橋の下や、乞食の格好して隠れ、恋人幾松に
匿われながらなんとか生きながらえていくことになります。
苦しい時代ですね。
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薩長同盟から長州藩の逆襲時代
京都を脱出し、但馬(兵庫県)を経て、桂小五郎は、高杉晋作たちが実権を握った長州藩で統率者として復活します。
この頃幕府からの言いがかりをつけられないように名前を変えています。(木戸は毛利の殿様からもらっています)(木戸貫治、木戸準一郎)
そして薩長同盟を坂本龍馬を仲介として薩摩藩、西郷隆盛と結び、薩摩、長州で倒幕、新国家を目指して行くことになります。
33歳の出来事です。
その後起きた戊辰戦争を経て、明治維新を成立するに至ります。
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明治維新で政治家として大活躍時代
晴れて明治維新が成立すると、名前を木戸孝允とし、右大臣岩倉具視から能力を買われ、総裁局顧問専任という役で、実質的な政策の最終責任者となります。
どんな政策に関わったか?以下箇条書き
●五箇条の御誓文(明治政府の基本政策、明治天皇が天地神明に誓う)
●マスコミ発達推進
●憲法制定(大日本帝国憲法)
●三権分立(司法、行政、立法)
●版籍奉還(土地の朝廷への返還)
●廃藩置県(殿様の廃止、知事の誕生)
●四民平等(身分制度の改正)
●二院制の確立(議会政治)
●民主的警察組織の強化(独立国家化していた鹿児島対策)
●地租改正(農民の不平等な税金解放)
●裁判所の強化(地元、萩の乱の首謀者を極刑に)
これだけ見ても、今の政治の基礎を木戸孝允が作り上げたと言っても過言ではないでしょうか?
これら全てに建言し、そして最終決定責任者だったわけですから!
大政治家たる所以です。
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晩年の木戸孝允
明治維新は、今までの政治の中心であった武士の特権をどんどんなくし、排除していきました。
それについていけない元武士たちが反乱を起こしました。
佐賀の乱然り、萩の乱然り。
それを、法律や、裁判所、警察の強化により近代国家として成立できるようにしていったのが
木戸孝允たち新政府でした。
しかし、これは大きな手術みたいなもので、その副作用もなかなかに大きい物がありました。
最後の大きな手術は、薩長同盟を結んだあの西郷隆盛を筆頭に起きた「西南戦争」です。
西郷隆盛は、鹿児島の元武士たちに担がれて大規模な戦争を起こしました。
西南戦争の鎮圧に木戸孝允は希望したと言います。
説得させたかったのでしょう!
しかし、病気(肝臓系の病気?)が悪化してそれは叶いませんでした。
最後に残した言葉。
「西郷もいいかげんにしないか」
(前に進もうぜって言いたかったんでしょう)
大久保利通に看取られながら、43歳の生涯を終えるのです。
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人物像
真面目な性格で、ルールは基本的に守る律儀な人でした。
なので、西郷隆盛に、薩長同盟前に一度約束をすっぽかされた時がありましたが、かなり激怒していました。そりゃあ怒りますね。
また、住所を人から聞いたときには、必ずメモを取るという、当たり前のようですが、きっちりとして性格をしていました。
体は174センチほどあり、当時としては結構大きい体をしていました。
力もあり、陸軍軍人の薩摩藩士、黒田清隆が飲酒で暴れた際、得意の柔術で投げ、絞め技で降参させた程です。
おおっ!
そして、酒豪でした!これは、普段の性格から来るストレスの発散方法だったのでしょう。
土佐(高知)の山内容堂と一緒に飲みすぎて、江戸城の廊下に意識を失い倒れ込んでいたという逸話も!?なんと大胆不敵な!
世話好きだったという一面も!特に後輩に対して、夜食を振る舞ったり、医者を紹介したりと思いやりがありましたね。
幾松とのエピソード
引用:Wikipedia
馴れ初めは
京都、三本木で芸姑をしていた幾松は、桂小五郎からの猛アタックで、お金をずいぶんと幾松につぎ込み、ライバルだった京都の富豪から勝ち取ります。最終的には、伊藤博文が刀で脅したなんて言われています。相当惚れましたね、小五郎さん。
献身的なサポート
でもこれは幾松と付き合うことが出来て、本当に正解です。
美しく、利発で、芸も達者な幾松は、恋人の小五郎をあらゆる面でサポートして行きます。
特に、桂小五郎潜伏時代には、乞食姿の桂に食料を届けたり、近藤勇の捕り方に対して、啖呵を切って、「もしも匿っていなかったら逆に切腹してもらうよ!」と負けじと言ったり、何度も桂小五郎の窮地を救っていて、まさに命の恩人です。
結婚へ
その後、明治維新になると、二人は結婚します。(名前を木戸松子と改名しています)
これが、日本初の、身分を越えた(藩士と芸姑)結婚と記録されています。
愛が勝つ!
友人たちとの宴席に連れて行ったり、ダイヤモンドの指輪をプレゼントしたり、新婚旅行は城崎温泉に行ったり、と
本当に二人は仲良かったのですね!
幕末最高のイケメンと美女のカップルと言えるでしょう!
最後に
桂小五郎(木戸孝允)は、近代日本を無事に離陸させるために生まれてきたんだと思います。
桂小五郎(木戸孝允)抜きでは語れない内容が山のようにありますからね。
真面目で、正確で、世話好きだった桂小五郎は、京都護国神社に今日も眠っております。
ご冥福をお祈りいたします!