幕末の時代、日本が外国に植民地化されることを防ぐ、外交力を魅せた男といえば!
「高杉晋作」この人です!
引用:Wikipedia
長州藩(今の山口県)の萩(今の萩市)の城下町に長州藩士の息子として生まれた高杉晋作は、
世界の列強から守ってくれたのです!
それはどういうことだったのでしょうか?
そして、高杉晋作が残した辞世の句と言えば、
「おもしろき こともなき世を おもしろく」
ですね。
どのようにすればおもしろくこの世を生きることが出来るか考えて生きよう!
っていう人生のことですね。
心の持ちようがとても勉強になります!
今回は、日本を救い、心の持ち方を指し示してくれた、高杉晋作を見てみましょう!
高杉晋作辞世の句の如く人生
いかに面白く生きるかを考えていた高杉晋作でしたが、面白い人生を生きてきたのでしょうか?
一生を見てみましょう!
松下村塾四天王
吉田松陰(倒幕を志し、新しい日本の姿を追い求めた長州藩の思想家、教育者)が教えていた塾、
松下村塾の優秀な4人(久坂玄瑞、入江九一、吉田稔麿)の内の一人です。
(この塾からは、後の総理大臣伊藤博文、山県有朋など様々な明治維新を支える人物が出ている伝説の塾です)
相当優秀な男でした。
また、剣術は長州藩の藩校、明倫館で、柳生新陰流を学び、免許皆伝を得ています。
文武両道すぎる!
様々な才能が集まるこの塾は、おもしろくない世の中を、まさに「おもしろく」するための考え方を学ぶには
うってつけの場所だったです!
留学で中国の現状を目の当たりにする
幕府の施設随行員として中国に留学に行った高杉晋作は、そこで、外国の列強に植民地化されていく
大国清を目の当たりにします。
また、港の貿易で賑わう上海を見たり(ここで拳銃を購入しています。その拳銃は坂本龍馬にプレゼントされます)、太平天国の乱(キリスト教の信仰を紐帯とした組織による中国中央政府に対する乱)を末期ではありますが見ることが出来たことは、その後の高杉晋作の人生に大きな影響を及ぼします。
この頃の中国は、混沌としていて高杉晋作の目からも「おもしろい」と見えたのではないでしょうか?
尊皇攘夷志士として
留学から帰った高杉晋作は、長州藩で盛り上がっていた、尊王攘夷運動に身を捧げていきます。
天皇を中心に、外国の脅威から日本を守り抜くという考え方から、外国公使を金沢八景にて刺殺しようと相談したり、英国公使館を焼き討ちしたりと実際に行動をして行きます。
これは、何事も実際の行動を推奨した吉田松陰の考えが色濃く出ているのでしょう。
薩摩は実行しているのに、長州は何もしていないという焦りからも行動に移したとも言えましょう。
しかし、少しばかり時代が早すぎました。
過激な人と見られてしまいます。
23歳の頃の出来事です!
でも人生としたら「おもしろい」人生を生きていますね!
苦難の時期
この後、外国に対して長州藩は攻撃を仕掛け、その報復を下関で受けることになります。
勇気あります!
その守備の一角を任され、
高杉晋作は身分によらない軍隊、「奇兵隊」を結成しますが、長州藩の正規軍に「烏合の衆」などとバカにされ、
いがみ合いにより、同じ長州藩同士の殺し合いに発展。
その責任を総督の高杉晋作が結成後3ヶ月で取らされる羽目になり奇兵隊から離脱します。
引用:Wikipedia
その後、八月十八日の政変で、長州藩が京都から追放されると高杉晋作はなん長州を脱藩して
京都に潜伏して運動を続けます。(結局、投獄されてその後謹慎しています)
この頃は失敗も多くありますが、それにめげず、前へ前へ進もうとしています。
これぞ「おもしろき」人生ですね!
英、仏、米、蘭の4カ国との交渉!
欧米の当時最強を誇る4カ国による攻撃を受け、たまらず長州軍は和議交渉を模索します。
ここで高杉晋作は謹慎を解除され、和議交渉人として最強4カ国と交渉を行うことになります。
日本の一藩が、世界の4カ国と交渉なんて、スケールが違います!
ここで、伝説の「古事記暗誦ウヤムヤ交渉作戦」が炸裂するのです。
基本全ての相手の条件は飲みますが、領土の租借(他国に領土を一定期間貸与すること)だけは、徹底して受け入れませんでした。この時に、OKしてしまうと留学の時、中国で見たように、外国の植民地化につながると分かっていたからです。
日本の神聖な領土は外国には渡さないぜ!って感じで、日本の古典である「古事記」を諳んじ、
外国人をちんぷんかんぷん状態にさせ交渉を乗り切ってしまおうっていうある意味強引な策です。
それが功を奏し領土租借はなくなります。
やったね晋作!「おもしろき人生ゲット」
第一次長州征伐で幕府と全面対決寸前
朝廷は、禁門の変(京都から京都守護職の松平容保を排除するために長州藩の志士がおこした戦い)を起こした
長州藩を征伐するように幕府に指示します。
それにより、15万の幕府軍が長州を倒しに来る戦いが第一次長州征伐です。
対して長州藩は2000くらい?
そして藩の方向性が決まっていない状態でした。
戦うのか降伏するのか?
長州藩は倒幕を目指す人が多くいましたから、そこから見ると幕府は完全に敵なのですが、
藩の中には幕府に恭順する(時代を前に進めない人たちですね)派閥も多くいました。
引用:Wikipedia
写真は、クーデターに出陣する高杉晋作!
幕府恭順を倒幕派の高杉晋作は12月15日大雪の中、功山寺でクーデターを起こし長州藩を倒幕一色に染め上げることに成功します。
(クーデター時、伊藤博文率いる力士隊や高杉の手から離れていた奇兵隊も加わっています)
引用:Wikipedia
(写真真ん中が高杉晋作、右が伊藤博文)
武力を持って長州藩の方向性をまとめ上げちゃいました。
殿様でも家老でもなんでもなく、一介の脱藩浪士がここまで出来ちゃうなんて!
「おもしろい!」
戦争の結果は、長州征伐の責任者であった、薩摩藩の西郷隆盛が、戦を回避するために尽力し、
長州藩は家老の首を差し出すなどの条件を飲み、全面戦争を避けることが出来たのでした。
良かったです!強運も持ってます!
(ここで戦ってたら、長州軍は負けていたでしょう。戦争続きで財政力も軍備も弱く、藩の方向性も定まってなく
色々な面で弱っていました。さらに幕府軍は無傷でなんといっても数で圧倒していて朝廷、世論も味方でしたから)
参照:薩長同盟の内容をわかりやすく図で解説!坂本龍馬は何をした?
第二次長州征伐
その後、長州は薩長同盟を結び、軍事力を強化して行きました。
藩としての考え方も完全に統一しています。
そんな長州藩を、再度幕府は征伐しようと企みます。
今度は、将軍家茂自ら総大将として出陣です!
相手に不足なし!
高杉晋作も、長州軍海軍総督として参加します。
夜襲で幕府艦隊を撤退させたり、周防大島を奪還したり、北九州の小倉では幕府軍を敗走させるな
ど、勝利に大いに貢献しています。
高杉晋作、楽しかったのでは?
「おもしろい」時を過ごせたのでしょう。
結果は長州軍の優勢の中、将軍家茂の死去による幕府軍の撤退により幕を閉じます。
この戦いは、幕府に相当で決定的なダメージを与え、実質幕府が無力化した戦いになりました。
明治維新を一気に後押ししたと言え、高杉晋作ここにありって感じです!
辞世の句と最期
そんなおもしろい生き方を送ってきた高杉晋作も、病には勝てませんでした。
肺結核です。
29年の人生を下関桜山で終えます。
最後に、辞世の句「おもしろき こともなき世を おもしろく」の下の句で、
看病していた尼さんが詠んだ「すみなすものは 心なりけり」と続けました。
まさに高杉晋作が駆け抜けた人生を「おもしろく」してきたのは、チャレンジし続け、行動し続けた
その原動力、「心」だったのでしょう!