勝海舟勝海舟

行いは己のもの、批判は他人のもの、知ったことではない

ちょっと過激なモノいいですね。でも真実かなって思います。
こんな言葉を残した勝海舟とはどんな人物だったのか?
名前は有名ではありますが、これをした人!ってはっきりと分からなかったりしませんか?
なんとなく幕末にいた人で、、、。くらいのイメージの方が多いのではないでしょうか?
そんなあなたの疑問を、同時代を生きた坂本龍馬、西郷隆盛と絡めながら説明していきます。
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勝海舟とは

勝海舟

引用:Wikipedia

勝海舟を成し遂げたこと3つ

1,日本海軍を創った~坂本龍馬を成長させた男
2,江戸を戦火から守った~西郷隆盛と江戸城無血開城を成し遂げた男
3,旧幕臣たちを救った~明治以降の徳川一族存続を手助けした男
この3つの大きな功績を残した男です!
3つをもう少し紐解いて見ていきましょう。

3つの大きな功績解説

1,日本海軍を創り、坂本龍馬を育てた?

 まず背景として当時、黒船が開国を迫ってきていた時期です。
そんな折、勝海舟は江戸幕府に対し、意見書を提出しました。内容は、日本を外国から守るため、海軍を強化していく必要がある!と。
そして、その意見書が通り、それではってことで、長崎で海軍を学ぶことになり、その延長上に神戸海軍操練所という幕府の海軍学校が出来上がるのです。
結果的に、神戸海軍操練所を勝は任され、そこに入学した生徒である坂本龍馬を指導していくことになるのです。
勝海舟がいなければ、海軍が育たず坂本龍馬が育たず、そうすると薩長同盟が成立せず、旧幕府とそれ以外の勢力の戦いが長引き、国力低下し欧州列強に日本は飲み込まれていたでしょう!
薩長同盟に関しましてはこちらをご参照ください
2,江戸を戦火から守ったとは?

背景として薩摩と長州を中心とした新政府軍が旧幕府軍を倒すために江戸へ近づいていました。

 

江戸は幕府の本拠地で、総大将の徳川慶喜はまさに江戸の寛永寺というところにおりました。

新政府軍は正にここにターゲットを絞っていたわけです。旧幕府軍の総大将は徳川慶喜で

した。その慶喜から軍事面の責任を任されていたのが勝海舟でした。

 

勝海舟としては戦争をなんとか避けたかったので、ギリギリ交渉を西郷と続け、双方の条件の着地点をうまく落ち着かせ、戦争を避けることに成功します。

勝海舟がいなければ、江戸城が戦火にまみれ、150万人の人口を持つ日本の首都機能が崩壊し、日本の復興が大幅に遅れ、国力低下し欧州列強に日本は飲み込まれていたでしょう!
3,旧幕臣たちを救ったとは?
 明治維新がおこると、旧幕臣は敗者ですから、当然優遇はされません。まあ、政府に取り立てられた人も勝海舟をはじめいましたが、優遇されない才能がある方も多かったです。特に資金面は厳しいものが有りました。
そこで、明治政府の役職にいた勝海舟が動き、旧幕臣たちを救うために尽力するのです。勝海舟の明治時代はほぼ、このために生きたと言っても過言では無いでしょう。
敗者の総大将、徳川慶喜が明治政府から赦されたのも勝のおかげです。
結果、旧幕臣から郵便制度の父・前島密や、初代気象台長・荒井郁之助津田梅子の父であり日本で初めて通信販売を行った津田仙などが活躍しました。
彼らの資金援助は勝なくして有りえませんでした。
勝海舟がいなければ、旧幕臣の才能も埋もれ、日本の国力の低下に繋がり、これまた欧州列強に日本は文化、教養の面でも飲み込まれてしまっていたでしょう!
勝海舟がいなければ欧州列強に日本は飲み込まれてしまったでしょう。日本の明治維新後の活躍に無くてはならない人だったのです!

勝海舟の基本情報

勝海舟

引用:Wikipedia

写真、凛々しいですね!

1823年3月12日江戸(東京)で生まれます。
●明治32年に亡くなります。
●江戸幕府と明治政府の様々な役職を歴任した政治家です。
日本ではじめて軍艦で太平洋を横断しました(ジョン万次郎も一緒でした→ジョン万次郎が大河ドラマに?英語をどうやって覚えたの?
●蘭学は堪能でした。若い頃辞書を2冊書き写す程。
●福沢諭吉とは仲が悪い
犬に睾丸を噛まれて以来、犬がトラウマ
●氷川清話は回顧録を書物にしたもので有名
妾多く、女好き?
●剣術は直心影流の免許皆伝を持っている
●蘭学の私塾「氷解塾」を開いたこともある
●東洋大学や専修大学の設立にも関わる
徳川慶喜の子供を養子にもらう
 

勝海舟の年表

西暦勝海舟
1823年江戸(東京)にて生まれる(0歳)
1838年勝家の家督を継ぐ(15歳)
1853年黒船来航に対して、幕府に海防の意見書を提出する(30歳)
1855年長崎海軍伝習所で蘭学や航海術を学ぶ。先生も兼任(32歳)
1858年薩摩藩主島津斉彬と交流あり(35歳)
1860年蒸気船、咸臨丸(かんりんまる)でアメリカへ渡る。(37歳)
1862年坂本龍馬を弟子にとる(39歳)
1863年神戸海軍操練所を設立する(40歳)
1865年西郷隆盛と大阪で出会う(42歳)
1868年西郷隆盛との交渉で江戸城無血開城成立(45歳)
1872年海軍卿(明治政府の役職)に任命される(49歳)
1886年徳川家墓地の管理と旧幕臣援助を定めた酬恩義会設立(63歳)
1892年徳川慶喜の十男を養子に迎い入れる(69歳)
1899年赤坂の自宅で脳溢血で倒れ死去「コレデオシマイ」が最後の言葉(76歳)
最後に勝海舟の人となりが知れる、名言をいくつかご紹介して締めたいと思います。
これは私の好きな言葉をチョイスしました。
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勝海舟の名言

冒頭の言葉以外にも多くの言葉を残していますが、後3つ程ご紹介します。

自分の価値は自分で決めることさ。つらくて貧乏でも自分で自分を殺すことだけはしちゃいけねえよ!
→自分を貶めることは人生を投げ出すってこと。自分を守れるのは自分だけって意味に私は解釈しています!
行政改革というものは、余程注意してやらないと弱い者いじめになるよ。肝心なのは、改革者自身が己を改革することだ!
→改革って多分に他人に求めるもの。自分も改革して初めて成り立つものだと、私も会社社会の一員として実感しています!
やるだけのことはやって、後のことは心の中でそっと心配しておれば良いではないか。どうせ成るようにしかならないよ。
→人事を尽くして天命を待つの意味でしょう。自分の出来ることをやること。いつも私が思っていることです。欲張りすぎても見失うような気がしています。
しかしながらなんともかっこいいお言葉達!
言い方もべらんめえ口調で心にぐさっと刺さります。

まとめ

勝海舟は、江戸幕府から明治維新に日本が移行する過程で、無くてはならない人でした。

薩長同盟を成立させた坂本龍馬を育て、西郷隆盛と江戸城無血開城を成し遂げ江戸を守り、旧幕臣を援助して国力を上げました。

日本近代化を影で支えた功労者ですね!

勝海舟、ありがとうございます!