戦国時代の甲斐の国(山梨)。

その甲斐の国を治めていたのは武田家の当主で戦国大名の武田信玄でした。

当時武田家は武田信玄を中心に相当強い勢力を持っていて、領地を戦に勝つことで拡大していました。

その武田信玄を支えた家臣の中でもより優れた武将たち24人を「武田二十四将」と言います。

戦国最強家臣団などとも言われることもあります。

その24人とはどんな人がいたのか?

今回、「武田二十四将」を構成する屈強の武将たちをそれぞれ分析していきたいと思います。

★この記事でわかること

◯武田家は戦国時代の大名の中でもトップクラスの戦の強さを誇りました。

その強さを支えたのは、強力な家臣団だったと言えます。

中心的なメンバーとして二十四将がいました。

その強さ分析結果がわかります!

 

 

引用:Wikipedia

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武田二十四将とは?

甲斐・信濃(山梨・長野)を治めた戦国大名の武田信玄がに仕えた武将の中から、特に後世一般的に評価が高い武将を24人さして呼称した家臣団の呼び名のことです。

相当な実力者が信玄のもとには揃っていて、領国拡大を広げる政策を実施する上で欠かせない人材たちでした。

戦国最強家臣団と呼ぶことも出来ますでしょう!

武田二十四将一覧

ではどんな方がいたのか見てみましょう!ズラッと一覧です。

甘利備前守虎泰(あまりびぜんのかみとらやす)

板垣駿河守信方(いたがきするがのかみのぶかた)

飯富兵部少輸虎昌(おぶひょうぶしょうゆとらまさ)

高坂弾正忠昌信(こうさかだんじょうのじょうまさのぶ)

内藤修理亮昌豊(ないとうしゅりのすけまさとよ)

馬場美濃守信春(ばばみののかみのぶはる)

山県三郎兵衛尉昌景(やまがたさぶろうひょうえいじょうまさかげ)

小畠山城守虎盛(おばたやましろのかみとらもり)

多田淡路守満頼(ただあわじのかみみつより)

原美濃守虎胤(はらみののかみとらたね)

山本勘助春幸(やまもとかんすけはるゆき)

横田備中守高松(よこたびっちゅうのかみたかとし)

一条衛門太夫信龍(いちじょうえもんだゆうのぶたつ)

武田典厩信繁(たけだてんきゅうのぶしげ)

武田形部少輸信廉(たけだぎょうぶしょうゆのぶかど)

秋山伯耆守信友(あきやまほうきのかみのぶとも)

穴山玄蕃頭信君(あなやまげんばのかみのぶきみ)

小山田左兵衛尉信茂(おやまださひょうえのじょうのぶしげ)

土屋左衛門尉昌次(つちやさえもんのじょうまさつぐ)

小畠豊後守昌盛(おばたぶんごのかみまさもり)

三枝勘解由左衛門尉守友(昌貞)(さいぐさかげゆさえもんのじょうもりとも(まささだ))

原隼人佑昌胤(はらはやとのすけまさたね)

真田源太左衛門幸隆(さなだげんたさえもんゆきたか)

真田源太左衛門尉信綱(さなださなだげんたさえもんのじょうのぶつな)

 

名前が皆さん長いですねえ!

みんな歴戦の猛将たちなのです。

数が多いので、分類をしました。

武田四天王(一期)武田家家臣の中で、より優れて重要な存在だった武将4人。信虎~信玄の初期の頃。」

※信虎=武田信玄の父。信玄の前に甲斐の国を治めていた。

武田四天王(二期)武田家家臣の中で、より優れて重要な存在だった武将4人。信玄の中期~勝頼の頃。

※勝頼=武田信玄の子。信玄の後、武田家を継いだ。

武田五名臣武田家の足軽大将。他国から流れてきた浪人の中から武道に優れた武将が選ばれた

武田家御一門武田家同族

譜代家臣武田家親族

足軽大将・国衆その他足軽大将で優れたもの。地方の領主

では一人ずつ分析してまいりましょう。

 

武田四天王(一期)

甘利備前守虎泰(あまりびぜんのかみとらやす)

武田信虎、武田信玄の二代に仕えた武田譜代の名将で家老を務めた!

上田原の戦い(村上義清軍に大敗した)で戦死。

政治家の甘利明は子孫。

 

板垣駿河守信方(いたがきするがのかみのぶかた)

甘利虎泰と並び、武田の両雄と言われた重臣で家臣の筆頭格。

諏訪(信濃・長野)の郡代(地方を治める役)を務めた。

上田原の戦いで戦死。

子孫に自由民権運動で知られる「板垣退助」がいる。

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飯富兵部少輸虎昌(おぶひょうぶしょうゆとらまさ)

知略抜群の武将!赤色一色の軍備をしたことから「飯富の赤備」と言われた。

元祖赤備え。山県昌景の父親。

甘利と板垣亡き後の武田家家老を務め、信玄を支えた。

第四次川中島の戦いでは、別働隊大将を担い、大活躍。

信玄嫡男、義信の傅役(後見人)を任されるが、義信謀反の責任を取り自害。

 

武田四天王(二期)

高坂弾正忠昌信(こうさかだんじょうのじょうまさのぶ)

甲斐の国、石和出身で百姓春日大隅の子。

16歳で武田信玄に仕え、高坂に改名。知略に優れる。

川中島の戦いの最前線地である、海津城の城主。軍学書「甲陽軍鑑」の著者。病死。

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内藤修理亮昌豊(ないとうしゅりのすけまさとよ)

信虎公に殺された工藤虎豊の子。

度量大きく真の大将と称され、主だった戦にはすべて参戦し武功を立て続けた武田家の副将!。

信州深志城(現松本城)、上州(群馬)箕輪城城主を務めた。

長篠の戦いで勝頼を逃がすために戦場にとどまり戦死。

 

馬場美濃守信春(ばばみののかみのぶはる)

信州牧島城主。知勇に優れ70度の合戦に加わり、一度もかすり傷すら無かったという。

「不死身の鬼美濃」と異名を持つ。

築城の名手でもある。

三方ヶ原の戦いでは、徳川軍を浜松城下まで追い詰めた。

もとは美濃(岐阜)の土岐家の一族で、甲斐に移り、名門馬場氏を継ぎ、侍大将、譜代家老衆、美濃守と名乗り許諾、と出世を続けた。

長篠の戦いで、勝頼が退却したことを見届けた後、織田軍と戦い討ち死に。

 

山県三郎兵衛尉昌景(やまがたさぶろうひょうえいじょうまさかげ)

兄飯富虎昌の謀反を密告し、評価され「赤備え」を引き継ぎ、最強部隊の代名詞となる。

小柄だが、戦に挑む心がけは素晴らしく、「源四郎(山県)の向かう処敵なし」と言われた。

主に信玄側近として、外交や交渉役として活躍する。

三方ヶ原の戦いでは、織田信長軍3万対山県軍6000で戦い、織田軍を撤退させている。

長篠の戦いで一番に攻撃を仕掛け、敗退、戦死した。

子孫が「山県館」という温泉旅館を経営している。

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武田五名臣

小畠山城守虎盛(おばたやましろのかみとらもり)

鬼虎の異名を持つ猛将!虎は武田信虎から1字もらった。

36の合戦に参加し、感状(戦の手柄を褒めた主君からもらう書状)も36枚もらっている。

病死。遺言は「よく身の程を知れ」

 

多田淡路守満頼(ただあわじのかみみつより)

美濃(岐阜)出身。

信州虚空蔵山の砦の守備の際、「火車鬼(かしゃおに・地獄の妖怪)」を斬ったり、湯村(甲府市)で天狗を刺すなどの伝説を持つ勇将。

29の武功を立てた。

第四次川中島の戦いから2年後病死。

 

 

原美濃守虎胤(はらみののかみとらたね)

下総国(千葉)出身。

武田信虎から「虎」の文字を名前にもらい、足軽大将として活躍。

その後「鬼美濃」「夜叉美濃」の異名で諸国の軍団に恐れられたが、負傷した敵将を敵陣まで送り届けたり、城攻めの際城の損害を最小限に抑えるなど、情け深く、知的な武将でもあった。

68歳で病死。

 

山本勘助春幸(やまもとかんすけはるゆき)

板垣駿河守の推挙で武田家に仕えた。兵法に優れ、信玄の名参謀として働いた。

戸石城の敗退から反撃して勝利に導いた「破軍建返し」や、分国法「甲州法度之次第」の献策や、高遠城の築城など、軍略から治世まで、幅広い才能を発揮した。

第四次川中島の戦いで、自らの策「啄木鳥の戦法」を上杉謙信に見破られ、戦死。

当てずっぽうの意味に使われる「ヤマカン」の語源は山本勘助の名前に由来する。

連合艦隊司令官の山本五十六は山本勘助の弟の子孫とされる。

横田備中守高松(よこたびっちゅうのかみたかとし)

近江国(滋賀)甲賀出身。

戦場に34度出陣し活躍した名将!

弓矢の名手とされ、甘利虎泰のもと、各地で武功を上げた。

宿敵村上義清に武田軍が襲撃された、「戸石城崩れ」では殿(しんがり)を務め、信玄を逃がすことに成功するが、自身は戦死した。享年64歳。

子孫は徳川時代の旗本最高位として繁栄する。

 

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武田家御一門

一条衛門太夫信龍(いちじょうえもんだゆうのぶたつ)

信虎の八男で、甲斐源氏の一条家を継いだ。

甲斐上野(山梨三郷)城、駿河(静岡)田中城、駿府城、城主をつとめた。

松永久秀や本願寺などの外交を担当し、信玄の信頼も厚かった。

風流を好み花を愛した伊達者という。

織田・徳川の甲州征伐により、家康軍1万の軍勢を300の手勢で迎え撃ち討死。

 

武田典厩信繁(たけだてんきゅうのぶしげ)

信玄の弟でよく兄をサポートした御一門の筆頭格で、まことの副大将として江戸時代にも受け継がれるほど。

特に外交面を担当し、戦のときは軍事指揮官として活躍した。

信繁の名前は真田幸村(信繁)の由来でもある。

信繁が残した家訓は甲斐の法律「甲州法度之次第」の原型となる。

第四次川中島の戦いで戦死。37歳であった。

関連記事:喧嘩両成敗法の意味とは?武田家分国法でどう運用したの?

 

 

武田形部少輸信廉(たけだぎょうぶしょうゆのぶかど)

信玄の弟で、兄信繁亡き後の親族衆筆頭。

高遠城城主をつとめ、信玄亡き後の信虎(信玄の父)の身柄を引き取る。

逍遥軒(しょうようけん)の出家後の名前で知られる。

信玄の影武者をつとめ、その巧みさは、北条氏の軍師板部岡江雪斎をも欺くほどだったという。

絵がたくみで、武田信虎像、大井夫人(信虎の正室・信玄の母)像などを描いた。

甲州征伐の残党刈りで捕らえられ、殺害された。

 

譜代家臣

秋山伯耆守信友(あきやまほうきのかみのぶとも)

信州(長野)大島城、飯田城城主。後、美濃岩村城城主となる。主に伊那郡(長野の南部分)の守備を任されながら、織田信長などの外交をしていた。

信玄の西上作戦(京都へ向けた遠征)の途中、岩村城開城に際して、織田信長の叔母で、おんな城主のおつやの方を正室に迎えたと言われている。

最期は、織田信長によって磔の刑にされている。

 

 

穴山玄蕃頭信君(あなやまげんばのかみのぶきみ)

信玄の娘婿で、陸奥守とも称し、後、剃髪して梅雪入道と称した。

信玄、勝頼のもと、重臣として武田家領地拡大に貢献。

しかし、長篠の戦いでは戦を避け、織田・徳川の甲州征伐の際には、穴川家を守るため武田家から離反し徳川と内通した。

本能寺の変の後、徳川家康と共に落ち延びるが、途中落ち武者狩りに会い、殺害された。

 

 

小山田左兵衛尉信茂(おやまださひょうえのじょうのぶしげ)

郡内(山梨東部)領主。信玄、勝頼の二代に仕えた。文才の持ち主として信頼される。

織田・徳川による甲州征伐では、落ち延びる主家武田家当主勝頼を見限り、離反した。

最期は武田家からの裏切りを咎められ、織田軍により処刑された。

 

 

土屋左衛門尉昌続(つちやさえもんのじょうまさつぐ)

川中島第四回の合戦、三方原の戦いで名を挙げた名将。土屋家を相続。

信玄の側近中の側近、「奥近習六人衆」の一人。

長篠の戦いでは、織田軍の一斉射撃を受け戦死した。

 

足軽大将・国衆

小畠豊後守昌盛(おばたぶんごのかみまさもり)

小畠山城守の次男。聡明で武道とともに学問をよく修めた。足軽大将。

人事異動の命令に従わずに信玄に切腹を命じられたこともある。

勝頼が落ちのびる中、暇乞いをし、最期は地方病で病死。

 

三枝勘解由左衛門尉守友(昌貞)(さいぐさかげゆさえもんのじょうもりとも(まささだ))

山県昌景の婿。遠州高天神城城主。弓衆を率い、小田原城攻めなどで武功を上げる。

信玄の側近中の側近で幹部候補の「奥近習六人衆」から足軽大将になる。

長篠の戦いでは、姥ヶ懐(うばがふところ)砦を守っていたが、奮戦叶わず戦死。

 

原隼人佑昌胤(はらはやとのすけまさたね)

守備の術に優れた才能を発揮した。陣馬奉行として陣取りの上手であった。

主に富士方面の支配に携わっていた。

内務官僚的な役割で武田家を支えていた。

長篠の戦いで戦死。

 

真田源太左衛門幸隆(さなだげんたさえもんゆきたか)

真田幸村の祖父。武勇知略ともに優れていた。

真田家の礎を築いた。

戸石城を調略で一日で攻略するなど、知略に優れていた。。

「攻め弾正」の異名を持つ。

家紋を「六文銭」に。

62歳で病死。

関連記事:三途の川の渡し賃は真田家の家紋の六文銭!現代ではいくら?

 

真田源太左衛門尉信綱(さなだげんたさえもんのじょうのぶつな)

真田幸隆の長男。三方原では武田軍の先手として凄まじい活躍を見せた。

初陣から一番槍の功名をあげ、「武勇抜群、攻城、野戦、その功すこぶる多し」と評価されていた。

長篠の戦いで、陣太刀「青江貞」を振って怒涛の活躍を見せるが銃撃にやられ39歳で戦死。

 

24人の武将たちを見てまいりました!

この24将の中で一番好きで推しな武将はぶっちぎりで「馬場美濃守信春」を挙げます!

二十四人の中で最強は馬場信春

おそらく24人が総当たりで個人戦(一騎打ち)で戦ったなら、かなり接戦が予想されますが、勝ち残るのはこの「馬場美濃守信春」でしょう。

その理由を一言で言いますと、「心技体・知勇のバランスが最高に良い!」からです。

そして実績、評判も抜群すぎるほど!

羅列してみますと、

  • 初陣を17歳で飾り敵の諏訪氏を撃破!
  • 武田四天王の一人(武田信玄に特に認められた優れた家臣)!
  • 「不死身の美濃」との異名で呼ばれ他の国から恐れられた!
  • 40年間、70回の戦でかすり傷なし!無敵!
  • 築城の名手。戦に勝つための城作りは名人級。三方原の戦いの大勝は馬場の築城のおかげ!(山本勘助から学ぶ)
  • 三方ヶ原の戦いでは、徳川家康を浜松城まで追い詰め、家康に「脱糞」の自画像を描かせる程の恐怖を味あわせる!(軍術は小畠虎盛から学ぶ)
  • 主君・武田信玄からの評価は最高峰。一国を任せられる器量を持っている!信玄の代わりに軍事指揮を振るえる!と。
  • 戦で勝った後の略奪する部下たちを戒める!例えそれが主君の信玄が「良い」言ったとしてもダメなものはダメと言える肝のすわり方が半端ない!
  • 最期の戦いになった長篠の戦いも、いつもは疎んじられている主君武田勝頼を退却させ、織田軍の佐久間信盛を蹴散らすなど劣勢ながら大活躍!
  • 最期は、抵抗せず、手柄を敵の織田軍に自ら差し出すという大物すぎる!

と、逸話からしか伺えませんが、つけ入るスキが全く無いので、最強と言えるでしょう!(勝手に独断です!)

 

最後に、私の祖先とのつながりがある人物の話をしたいと思います。

かなり私の個人的な話ではあるのですが、私の実家は山梨で、祖先が戦国時代に生きた侍でした。

その私の祖先に関わりのある武将が24将の中にいるのです!

最後に、そのつながりをお話させてください!

武田二十四将のつながりがある私の祖先

私の祖先に繋がりがある武将1「三枝昌貞」

長篠の戦いで散った三枝昌貞ですが、その父親が「三枝虎吉」といいます。

三枝虎吉も武田家に仕えた優れた武将なのですが、彼が開いた「三星院」というお寺があります。

そのお寺になんと私の家の家系図があるのです!

なので、なにか繋がりを感じるものがあり、かなり個人的ですが好きなのです。

私の祖先に繋がりがある武将2「土屋昌続」

長篠の戦いで戦死した土屋昌続ですが、彼は浅利信種という源氏の流れを組む名門の武将が亡くなった後、彼が率いていた部隊を引き継ぎました。

そしてこの浅利信種に仕えていた浅利四族という一族があるのですが、その内の一つが私の祖先なのです。

なので、なので、特に親しみが湧いたりするのです。

また、この土屋昌続が戦死した後家督を継いだのが弟の土屋昌恒です。

土屋昌恒は、武田家頭領の武田勝頼が多くの家臣に裏切られ、織田信長の軍に追いつめられた時も主君を守り、最期「片手千人斬り」という最後まで奮迅した伝説を残したすごい武将なのです。

このときに私の祖先も土屋昌恒と一緒に戦い、そして戦死していったのです。

私の祖先のつながりがあったというところから親しみが湧いたりします!

 

ちょっとマニアックですが、当時の戦国時代を百姓の目から見た映画があります。

ここに土屋昌恒も登場します。

かなり衝撃的だったのでご紹介しますね。(白黒の映画です)

 

私の祖先に繋がりがある武将3「内藤昌豊」

内藤昌豊は長篠の戦いで亡くなりますが、その子孫は巡り巡って今の東京昭島あたりを治めることになります。

内藤家はこの昭島にある「広福寺」にお墓があるのですが、私の祖先もまたここにお墓があるのです。

もとは浅利氏に仕えていた私の祖先は、内藤家にも仕えていた時期があったようです。

なので妙に内藤昌豊に親しみが湧いてきます!

 

私の祖先は「薬袋小助」といいます。

そんな有名ではないですが、戦国時代を生きた武士の一人として実在していました。

ちょっと興味が湧いた方はこちらの記事もどうぞ。

「薬袋」の読み方は?由来は武田信玄公?浅利四族の一角!

まとめ

武田家の二十四将を見てまいりました。

戦国当時、二十四将という名称は存在しませんでした。後世になり選抜された家臣たちなのです。

もちろん、武田信玄の屈強な家臣は紛れもなく存在し、荒れ狂う戦国の世界の中、領地を大きく拡大できたのは、二十四将はじめ、多くの優れた武将たちがいたからにほかなりません。

そんな後世に残したいと思われた武将たちをまとめたのが武田家二十四将と言えるでしょう!

武田家オールスターとも言える布陣は戦国最強かも知れません。

こんなメンバーを采配できるって、武田信玄最高ですね!

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