新陰流 上泉伊勢守信綱(かみいずみいせのかみのぶつな)
は、日本の戦国時代の多くの著名の流派(柳生新陰流・宝蔵院・タイ捨流など)の元となった剣豪です。
引用:http://tigerdream-no.blog.jp/archives/8373310.html
関東上野の国(群馬県)に生まれた戦国時代の武将であり、兵法者だった上泉信綱は
「無刀取り」の考えを編み出したり、「袋竹刀」を発明したり、剣の神様と言われる「剣聖」の称号を
ほしいままにした男でした。
今回、「剣聖」で多くの著名な弟子を輩出した上泉伊勢守信綱について見てみたいと思います!
「新陰流」上泉信綱は柳生新陰流の師匠
江戸時代、徳川将軍家の剣術指南役を仰せつかったのは柳生新陰流でした。
そして柳生新陰流の創始者、柳生石舟斎の師匠はなんと上泉信綱なのです!
そのエピソードをご紹介しましょう。
柳生石舟斎との出会い
当時33歳の血気にはやる剣豪だった柳生石舟斎は、奈良の宝蔵院で、55歳の上泉信綱に試合を申し込みます。
「俺が倒してやるぜ!」と意気込む石舟斎でしたが、信綱どころか、弟子の疋田にも勝てず、
3日間を費やしますが勝てず、己の未熟さを痛感します。
「つ、強い!」
そして上泉信綱の弟子に入門することになるのです。
いやあ、上泉信綱最強です!
参照:映画「関ケ原」鬼の島左近公と剣豪柳生石舟斎との気になる関係を暴いていきます!
「無刀取り」
その後、師匠の上泉信綱は弟子の柳生石舟斎に「無刀取り」の極意を授け、石舟斎は見事「無刀取り」を完成させます。
この「無刀取り」は石舟斎が徳川家康の前で披露して、それがきっかけで将軍家剣術指南役になっていくのでした。
上泉信綱さまさまです!
URL:https://www.youtube.com/watch?v=06gbBUuHEoQ
1:00のところで無刀取りが見れます!
※無刀取りとは刀を使わず(持っていないときでも)に刀を持っている相手に勝つという剣術のことです。
二つの意味があり、
一つ目は文字通り刀を持つ相手に素手でも刀を奪う技術のこと(柔術に近い)。真剣白刃取りはこの分類。
二つ目は相手を油断させて相手の懐に潜り込み刀を奪うといった心理戦に近い技。
上泉信綱は、剣豪将軍足利義輝から、会話の流れの中から将軍の刀を奪うことに成功しています。
それこそが勝つために必要な極意と言えますね!
新陰流の真の極意とは?
これまで見たように、戦いの勝ち方としては、相手をめった切りにして、完全制圧するやり方ではなく、
あくまで、最小限の労力で出来れば、命を落とさずに、血を流さずに勝ち切る!といえるでしょう!
新当流の塚原卜伝に似ていますが、「活人剣」(人を活かす剣)です!
人を活かす極意があったからこそ、德川300年、その後、明治大正昭和平成と受け継がれる事ができたんだと思います!
足利義輝から「兵法者天下一」と!
上泉信綱は、足利義輝将軍(剣豪将軍)の前で剣術を披露し、
「兵法者天下一」の感状を受けたことがあります。
この披露の際、打太刀(倒れる役)を勤めたのが、弟子で後タイ捨流を創始する丸目長恵です。
将軍家になにか縁があるのでしょう。
新陰流とは、帝王に必要な要素を持ち合わせていた「剣」だと言えますね!
※ちなみに德川家剣術指南役はもう一つの流派も存在しました。小野派一刀流です。
創始者は伊藤一刀斎。幕末に坂本龍馬も学び、千葉周作が開いた北辰一刀流につながる流派です。
小野派一刀流は、将軍家に柳生新陰流ほど、重用されませんでした。
剣の強さだけを見れば小野派一刀流は相当の強さを誇るのですが、相手を倒すこと専門の剣。そして稽古用の剣は真剣。
剣の哲学なども総合的に見ると、平和な江戸時代では、柳生新陰流に軍配が上がるのでしょう。
そんな将軍家御用達の剣、上泉信綱の新陰流はどのようにして誕生したのでしょうか?
新陰流誕生まで
上泉信綱は1508年、上州(群馬県)の上泉城に生まれます。
隣の国鹿島に生まれたもうひとりの「剣聖」塚原卜伝の19年後ですね。
参照:塚原卜伝の強さは戦国最強!奥義「一之太刀」とは?弟子に将軍も?
そして、兵法三大源流と呼ばれる「念流、神道流、陰流」を学び、特に陰流から奇妙を抽出し「新陰流」を創始します。
師匠は神道流は松本備前守(塚原卜伝と同じ師匠)に学び、陰流は始祖愛州移香斎に学び、生まれ持った才能も活かしながら
かなり厳しい修行を行い新陰流を編み出します。
塚原卜伝のように、お告げがあったわけではなさそうですが、相当な鍛錬をされていたと見受けられます。
武将としての上泉信綱
上州の国の上泉城でその領地を治めていた信綱(当時は秀綱)は、若かりし頃は、むしろ武将として活躍をしていました。
西上野国を治めていた、箕輪城主である名将、長野業政のもと「上野国一本槍」と言われるほど活躍をしていましたが、
業正の死後、武田信玄の猛攻に破れ、主君の長野家は滅亡します。
「剣を持ってしても勝てぬか!」
秀綱から信綱へ
長野氏との戦いを通じて、上泉の活躍を知った武田信玄は、どうにかして上泉を部下にしようと三顧の礼を施しましたが
上泉は「自ら編み出した剣「新陰流」を全国に広めたい!」と断り、剣術を広めるたびに出るのです。
その時武田信玄の「信」の字をもらい、「上泉信綱」と改名しています。
さあ、晴れて自分の剣をたくさんの人に広げることが出来るぞてことで、全国行脚に出ます!
諸国へ剣術指南
この楽しい旅の途中に様々な人々と出会っていきます。上泉信綱50代の頃です。
まず、後の武田信玄の軍師となる山本勘助と会い弟子の疋田が勘助を退けます!
(時代的に無理がありますので、(すでに勘助が死んでいる年?)創作と言われていますが、対面があったらワクワクします!
その後、もうひとりの「剣聖」塚原卜伝から奥義「一之太刀」を授けられた伊勢の国司、北畠具教の「太の御所」に立ち寄ります。
その御所には当時たくさんの武辺者が集まっていて、そこで、柳生石舟斎を上泉信綱は知ることになるのです!
場所を法相宗の大本山、宝蔵院に移し柳生石舟斎と対決をします。
結果は前述の通り、上泉信綱の圧勝。
さらに宝蔵院の武辺僧侶で槍の使い手の宝蔵院胤栄も破ります。
此のことで、二人の当時すでに有名だった名手を破り、弟子にしたことで、上泉信綱の名が知れ渡ります。
自らの剣術を広めるミッションがかなり上手くいっていました。すごい、きっと、策士の才もお持ちだと思います1
天皇の前で天覧演舞
さらに上泉信綱は天皇の御前で演舞を行い、感嘆された天皇から御前机を拝領します。
そして足利将軍からは「天下一」の感状を貰うなど、確実に自分の剣の名を売りまくっていますね!
きっと、信綱は、マーケティングの能力も高かったと思われます!
晩年
最終的に旅の成果として、柳生石舟斎、宝蔵院胤栄、丸目長恵、香坂要、疋田昌兼に免状を渡したとされています!
その後、関東の結城家(秀忠の次男結城秀康が婿に行った家。
引っ越し大名の祖先→原作「引っ越し大名三千里」の映画化!あらすじと全キャスト!「この引越は戦でござる!」)
への紹介状が当時一級の文化人「山科言継」から出され、京都を去り、関東へ向かいます。
足跡はそこで途絶えます。
きっと、悠々自適な生活を、最後ばかりは選んで暮らしていたかも?しれませんね。
上泉信綱の逸話
袋竹刀
剣術の稽古と言えば、木刀が主流でした。
しかし、木刀では、気をつけても死傷者が出てしまいます。
そこで、竹を割ってそれを束ねて作った「袋竹刀」というものを開発します。
これにより、稽古による怪我や事故がなくなりました。
さすが「剣聖」!
今の剣道で使用する「竹刀」の原型です。
新陰流袋竹刀、注文が重なり一時的に在庫切れ表示となっていましたが、注文可能です。
粋陽堂ブログの「袋竹刀について」の記事もどうぞ!#袋竹刀 #新陰流 #柳生新陰流 #古武道 https://t.co/WIpil5ULB6
— 粋陽堂 (@suiyodo8890) 2018年6月22日
七人の侍のモデル
映画「七人の侍」に出てくるエピソードのモデルになったお話です。
そのお話はこうです。
ある村に荒くれ者がいて、村の子供を人質に小屋に立てこもりました。
そんな状況に信綱は遭遇します。
さあ、見て見ぬふりはできないと、一策を講じます。
これはかつて武田信玄と戦った戦を思い出すなあって思ったかどうかはわかりませんが、
とにかく、「無刀取り」の精神でなんとか解決しようと立ち上がります。
身なりを僧侶の出で立ちの袈裟に着替え、食料(おにぎり)を持って荒くれ者に話しかけます。
「子供もお前さんもお腹空いてきているんじゃないか?まずはおにぎりを持ってきたから食べな!」
って感じで促してみました。
すると、荒くれ者は素直に食料を受け取りに出てきました。
そこを信綱、きっちりと抑えて、誰一人として怪我や死人出さずに
子供を助け、荒くれ者を捕まえることができたのです。
おお!大手柄です!ニコっ!
最後に
多くの剣豪、流派を世に送り出し、「無刀取り」という奥義を編み出し、袋竹刀を開発し、日本の剣術の発展に
多大な影響を与えた人だったことがよーく分かりました。
映画のモデルになったことも影響力の大きさを表していますよね。
「剣聖」そして伝説へ!
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