細川忠興公とは?

本能寺の変を起こした明智光秀公の娘「細川ガラシャ」の夫です。

容姿はイケメンで、妻ガラシャを溺愛し、「ヤンデレ」(病んでる愛情)な武将として知られています。

他にどんなイケメン武将がいたのでしょうか?

関連記事:イケメン戦国武将ランキングベスト10!男が惚れる男は?

ゲーム「刀剣乱舞」にも出てくる名刀「歌仙兼定」の持ち主であり、茶道を極めた人でもあります。

 

今回そんな細川忠興公を、過激な逸話を中心にご紹介していきます!

楽しくご覧いただけたら幸いです。

[ad#co-2]

細川忠興公のプロフィール・簡単年表

引用:Wikipedia

※肖像画を見る限り、激しさは見えませんがその実は??

まずは、簡単なご紹介と生涯を見てみましょう。

  • 名前・・細川忠興(ほそかわただおき)
  • 時代・・戦国時代~江戸初期
  • 出身地・・京都
  • 生誕・・1563年11月28日
  • 死没・・1646年1月18日
  • 享年・・83歳
  • 血液型・・不明(性格的にAB型かな?)
  • 身長・・小柄(150センチ位)
  • 好物・・お茶・干し柿
  • 妻・・玉(ガラシャ)
  • 趣味・・お茶(千利休の弟子)・和歌・連歌・絵画(繊細な絵)・漢方薬製剤・甲冑や刀の拵(外装)作り
  • 発明・・越中ふんどし(下半身が丸出しにならない)・トイレの半戸(顔を見せることで、トイレに入っている時間を短縮させた)

家紋

家紋・・九曜紋(くようもん)「真ん中が太陽、周りが星」

引用:Wikipedia

家紋が九曜になった由来

由来は織田信長公が命じたことにありました。

細川忠興公が織田信長公の小刀に九曜が描かれているのを見て大変気に入っていたことがありました。

ときは過ぎ、織田信長公のすすめで、細川忠興公が明智光秀公の娘・玉と結婚する際、忠興公が九曜を気に入っていた事を思い出し、信長公がこの家紋を命じたのです。

忠興公、信長公が覚えてくれていて、相当嬉しかったのでしょう!

 

そしてこの家紋を譲り受けた武将がいます。

九曜紋を譲り受けた武将

東北の戦国武将、「伊達政宗公」です。

細川家の九曜の家紋を気に入った伊達政宗公が、細川忠興が使っている家紋が欲しい!ってなり、譲り受けたという話が残っています。(譲り受けておきながら、結局政宗公は家臣の片倉小十郎に与えてしまうのですが)

きっと、織田信長公から命じられたって逸話も伊達政宗公にしてみれば、欲しい!っていう動機になったのでしょう。

細川忠興公の簡単年表

幼少~青年時代

1563年・・京都にて、足利義輝13代将軍に仕えていた細川藤孝(幽斎)の長男として生まれる。その後、織田信長公の長男、織田信忠に仕える。

1577年(15歳)・・織田信長の紀州征伐にて初陣を飾る。更に信貴山城の戦いでも活躍する。

1578年(16歳)・・織田信忠より1字もらい「忠興」と名乗る。明智光秀の娘・玉(後のガラシャ)と結婚する。

1582年(20歳)・・叔父の明智光秀が本能寺の変を起こすと、謀反の疑いを晴らすべく光秀からの協力要請を断り、光秀の子である妻・玉を幽閉し、自分の髪を剃るなどの行動をとる。

父親が引退し、家督を相続し、丹波宮津城の城主になった。

壮年~中年時代

1584年(22歳)・・小牧長久手の戦いに参加

1587年(25歳)・・豊臣秀吉の九州征伐に参加

1590年(28歳)・・豊臣秀吉の小田原征伐に参加

1592年(30歳)・・朝鮮征伐(豊臣秀吉による朝鮮国征服の戦い)である文禄の役に参加

1595年(33歳)・・秀吉の甥っ子の、豊臣秀次が謀反の疑いをかけられ処罰される事件で、秀次に借金していた忠興は、徳川家康の助けもありお金を返すことが出来、豊臣秀吉から疑われずに済んだ。

関連記事:石田三成公が助命嘆願した駒姫は最上家から豊臣秀次公に嫁ぐ予定が?!親族を全員処刑!現場三条河原を調査!

1599年(37歳)・・秀吉の死後は、徳川家康に接近し、石田三成と敵対していく。加藤清正らと石田三成を襲撃している。18万石の大名となる。

1600年(38歳)・・関ヶ原の戦いでは、徳川家康側の東軍に付き、136の首験を挙げる活躍を見せる。妻の玉(ガラシャ)は、西軍の襲撃を受け自害した。

戦後、国替えで豊前中津(福岡北九州)に移り、小倉城を大改修し初代小倉藩藩主となる。

晩年時代

1611年(49歳)・・病に倒れるが、徳川家康の薬で快復する

1615年(53歳)・・大阪夏の陣に参加し、その後隠居する。出家し三斎宗立と名乗る。

1645年(83歳)・・熊本で死去

 

細川忠興公の逸話・伝説

良く、「ヤンデレ」(「病んでる」と「デレ」が合体した言葉。病気的な愛情表現のこと)と言われますが、この言葉は細川忠興公のためにあるのではなかろうか?と言えるくらい当てはまります。

それではそんなヤンデレな逸話を見ていきましょう。

逸話1「侍女の鼻と耳を削ぐ」

ガラシャに仕えた侍女・清原マリアがガラシャをキリスト教へ導いているということに忠興が激怒し、その侍女の鼻と耳を削ぎ、家から追い出してしまうという事件がおこります。

これは、愛する妻の玉(ガラシャ)がキリスト教の洗礼を勝手に受けたことに対する怒り、これをぶつける場所としてとばっちりを受けたということでしょう。(忠興はキリスト教反対派)

時の支配者、豊臣秀吉公がバテレン追放令(キリスト教徒を追放する法令)を発布した直後だったことも不幸でしたね。

なんで、禁止されていることを勝手にやってんねん!お前は!って感じですよね。

それにしても過激です。

今なら普通に犯罪者ですね。

これがきっかけで、妻のガラシャも怖くなり、夫から距離を置くようになっていきました。

逸話2「長男と次男を冷遇した」

愛する妻・玉(ガラシャ)の母乳で育った長男と次男を冷遇しました。完全に妻への嫉妬でした。かなり異常な愛情を感じますねえ。これではまともな子育ては出来なかったんじゃないかなあ。

子供にまで嫉妬するという、どんだけ好きだったんでしょう!

逸話3「妻への手紙」

朝鮮へ出兵中、日本にいた女好きの豊臣秀吉公が妻の玉を誘惑をしてくることを恐れ、「秀吉の誘いには乗らないように」という内容の手紙を何通も書いています。嫉妬の塊!

それほどガラシャは魅力的な女性だったのでしょう。そして忠興はかなりの心配性!?

昼ドラが作れそうな内容ですよ。

逸話4「実の妹に顔を斬られる」

細川忠興公の妹の旦那さんを殺害した後、その実の妹に襲われ顔に傷を負います

以来、顔の傷の話は細川家ではタブーとなります。

でもそりゃあ妹さんも怒りますよ。勝手に人の旦那を殺してくれるなって!人の命を何だと思っているのって!

戦国時代、現在の常識は通じないようです。

逸話5「超情報通」

手紙を関ケ原以後だけでも2000通を書いたと言われるほど、まめに情報交換をしていました。

大奥の春日局等、細川家が生き残るためにありとあらゆるつてを駆使していたようです。

また、息子の忠利公にも多くの助言などを手紙で伝えていました。

現在に忠興公が生きていたら、メールやラインを最大限使い、IT企業の社長にでもなっていたかもしれませんね!

逸話6「千利休に一番気に入られていた弟子!」

妻への異常な愛情や、過激な性格が目立つ忠興公ですが、文化人としての面も相当高かったのです。

茶道を極めた千利休の弟子「利休七哲」の中でも特に優れた3人の一人でした。

其の中でも一番利休に気に入られていたといいます。

そして自らも茶道「三斎流」を開くほどでした。

これだけ、気持ちを鎮める茶道をやっていたのにもかかわらず、激しい気持ちを抑えきれなかったのですね。

いや、茶道をやっていなかったら、もっと残虐非道な仕打ちを施していたかもしれません!!

関連記事:織田信長公の娯楽「茶の湯」「茶器」「利休十哲」をご紹介!

[ad#co-2]

細川忠興公の性格

一言「天下一気が短い人」でした。その短気ぶりは織田信長と同じくらいと言われます。

逸話を見ただけでも恐ろしくなってきましたが、どんな短気っぷりだったのか見てみましょう。

逸話1「騙し討ちして皆殺し」

同門である一色氏を騙しておびき寄せ自分の居城、宮津城内で殺害し、その兵士たちも皆殺しにしてしまう過激さを持っていました

短気というより残酷の部類に入りますかね。

自分の気持ちを抑えられないくらい熱い、熱すぎる人とも言えます。

ちなみにこの時使用した刀は、「浮股信長(うきもものぶなが)」という9つ重ねた胴を真っ二つにしてしまうかなりの切れ味がある刀でした。

逸話2「父も許さない」

関ケ原の戦いの最中、父細川幽斎公が立て籠もっていた田代城を、結果的に敵に明け渡したことを許さず、不仲になりました。

父であろうと許さない!自分を持ちすぎるくらい持っていた人だったのかもしれません。

甘い判断をする人を許さない!そういえば、同じ刀(和泉守兼定、こちらは11代目)を所持していた、新選組副長、土方歳三公も同じ匂いが若干しますね。

関連記事:映画「燃えよ剣」栗塚旭主演を見た感想は?岡田准一との比較

逸話3「すぐに殺そうとしてしまう」

明智光秀公が本能寺の変という謀反を起こしたあと、明智光秀公の使者が細川家にやってきました。

「味方になって欲しい」との要請でした。

しかし、忠興公は怒り、その使者をその場で一刀両断しようとします。

父親細川幽斎公になんとかその場は止められますがまさに瞬間湯沸器。

明智光秀句は義理の親でしたが、親戚としてのつながりよりも、実際に細川家として生き残れる道は何?という超現実的な考え方だったようです。

生き残りの嗅覚が優れていて、それに合わないことは排除していくっていう分かりやすい性格でもあります。

関連記事:本能寺の変の真実とは?智将明智光秀が下した決断の理由!

逸話4「石を運べず手打ち」

小倉城を築城している最中、巨大な石を運ぶことが出来なかった当時の担当の者が、それだけの理由で手打ちになるという、なんとも恐怖なことがあったようです。

明治時代、この巨石をにらみつけると成功すると言われていて「大石にらみ」「出世石」と言われていました。

当時の手打ちになった人の怨霊が聞こえてきそうです。

逸話5「妻に見とれた庭師を手打ち」

愛する妻、ガラシャに見とれていた(会釈した)庭師がいました。

それを見かけた忠興は、たったそれだけのことで烈火のごとく怒り、その庭師を斬り殺したと言います。

ここまで行くと、狂気としか思えませんね。

細川忠興公と家族

妻「細川ガラシャ」

関連記事:戦国の美女・細川ガラシャ(父明智光秀・夫細川忠興)の人生とは?


細川忠興公の妻は、明智光秀公の娘・玉でした。

その後、玉はキリスト教信者となり、「ガラシャ」という名前になります。

細川忠興公と並ぶと「人形のように美しい夫婦」と呼ばれるほど美女だったようです。

性格は気高く激しい勝ったようですが、キリシタンになってから、謙虚で穏やかに変わりました。

逆に夫の細川忠興公は大の異教徒嫌いだったので、愛する妻の変貌に、かなり複雑な想いを抱いていました。怒りと愛情と・・。そりゃあ性格もネジ曲がるかなあ、なんて思ったり。

ガラシャの最期は、関ケ原の戦いの時でした。

関連記事:映画「関ヶ原」全記事一覧掲載!まとめ・まるごと見て!

敵の石田三成公側の西軍が大阪の屋敷にいたガラシャにせまります。

ガラシャは敵の人質になることを拒み、夫、忠興の命令で敵に捕まるときには死を選ぶようにと言われていたので、死のうとします。

キリシタンは自殺が出来ませんので家老に介錯をさせ、自害して果てるのです。

壮絶過ぎる最期でした。

辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」(花も人も散る時を心得てこそ美しい)

美しく悲しげな響きが印象的な句です・・。

そんなガラシャの葬式を夫忠興公は教会葬にしたそうです。

このときばかりは、異教徒嫌いの忠興も、折れたのでしょうねえ。

戦国を生きた他の美女たちを気になる方はこちらをチェック

家族

父・・細川藤孝公(幽斎)

明智光秀公と共に、足利義昭将軍を擁立したことや、優れた歌人としても知られています。


子供・・

  • 長男・細川忠隆公(ガラシャの子。前田利家の娘で忠隆の正室・千世が母ガラシャ自害の時生き延びたことを父忠興公が咎め、離縁を命じた。しかし忠隆公は命令に従わなかったため、細川家を追放され、祖父の細川幽斎公のもとで暮らす
  • 次男・細川興秋公(ガラシャの子。養子に出ていたため、跡継ぎになれなかった。それに不満を抱き、細川家を出奔(しゅっぽん・家を出ること)し、大阪の陣では父忠興と敵対し、戦後、自害させられる。)
  • 三男・細川忠利公(ガラシャの子。三男ながら家督を継ぐ。江戸に人質に出ていた際、徳川秀忠公やその家臣と交流があったことが有利に働いた)
  • 四男・細川立孝公(本家三男忠利の子孫は細川治年で途絶え、立孝の子孫が本家に入り現在に至る。元首相の細川護煕は、立孝の子孫となる
  • 五男・細川興孝公(分家、細川形部家を興す)
  • 六男・松井寄之公(松井家の養子に入る)
  • 長女・おちょう(ガラシャの子。夫は豊臣秀次の家老、前野景定。豊臣秀次が謀反の疑いで処刑させられると前野も自害した。おちょうは自害直前で離縁し一命を取り留める)
  • 次女・こほ(松井興長の正室)
  • 三女・たら(ガラシャの子。稲葉一通の正室で、その子孫は仁孝天皇につながる
  • 四女・まん(烏丸光賢の正室)

全部で6男4女。

細川忠興公と刀

「歌仙兼定」

忠興公の愛刀は2代目和泉守兼定が作った、「歌仙兼定」です。

兼定は、「之定(のさだ)」と呼ばれていた名刀職人です。

刀の名前の由来は、忠興が家臣達の働きが悪いとして、36人手打ちにしたことを、歌人の三十六歌仙にかけた事から来ているそうです(伝承)。

風流なのか?恐怖なのか?複雑な気分にさせる刀ですね。

忠興公の性格を示している逸話かなって思います。

関連記事:かっこいい名前の日本刀ランキング10!思わず惚れる名刀は?

引用:https://kougetsudo.info/kasenkanesada/

「希首座(きしゅそ)」

以前、おびき寄せて殺害した(この時使用された刀は浮股信長です)一色氏とつながりのあった「希」という臨済宗の僧のリーダーを切り捨てました。

この時使われた刀が「希首座」と呼ばれるようになり、普段も帯刀するようになったとか!

とにかく敵と判断すると完全に敵とみなし、徹底的に潰そうとする性格は、ここでも出ています。

 

また、剣豪を好み、佐々木小次郎を剣術師範として雇っています。

剣術師範「佐々木小次郎」

関連記事:最強剣豪ランキングベスト10!戦国時代日本一は?


戦国の血が流れていますねえ。

兜はどうでしょう?

山鳥頭立黒塗越中兜」といい、鳥の羽が頭上に伸びているデザインです。

結構動きやすかったようで実戦向きですね。

細川忠興公と城

勝龍寺城(しょうりゅうじじょう)


織田信長公の計らいで、明智光秀公の娘玉(ガラシャ)と結婚した城です。

若き日の忠興公の住んだ城でした。

宮津城(みやづじょう)


京都の天橋立近くに新しく建てられた細川家の居城。

忠興公はこの城で初めて細川家の家督を継ぎました。

小倉城(こくらじょう)


小倉藩の初代藩主として小倉城を改修し、本城としました。

忠興公が築城した数少ない城です。

八代城(やつしろじょう)


細川忠興公の隠居の城です。

 

 

次に忠興公が残した名言を見てみましょう。

結構、波乱万丈の人生を送ってきているので、言葉にも重みがありますよ。

細川忠興公と言葉

名言

○後継者の細川忠利公へ当主の心得→「家中の者は将棋の駒と思え。将棋の駒にはそれぞれの働きがある。例えば桂馬は筋違い飛びの働きをする。それは飛車も角も及ばない。それは人も同じであり心得ておくべき。」と人の能力の生かし方を息子に伝授しています。

○将軍徳川秀忠公へ人物の登用方法について→「明石浦の牡蠣殻のような人が良いでしょう

意味は?→「明石の激しい潮の流れに揉まれた牡蠣は美味しい。人も、人の中で揉まれた方がどんどん人柄が良くなる。人に揉まれた経験を持っている人を登用すべきだということ」これは、細川忠興公自身のことを言っている部分あるか?

 

そして、臨終の時の言葉はいかにも戦国武将らしい言葉でした。

辞世の句

皆共が忠義 戦場が恋しきぞ いずれも稀な者どもぞ


死ぬまで戦場を恋しがった忠興公。

戦国に生きた生粋の武将と言えるでしょう!

細川忠興公と死

そんな忠興公にも死が訪れます。

死因

後継者であった三男忠利公、四男立孝公の相次ぐ死に気落ちしたことがきっかけだと言われています。

まあ、その前に癪(しゃく・いわゆる内臓疾患)とか目の病気など、満身創痍だったようですけどね。

自分で薬を調合したり、病気にならない食事の仕方などを研究していましたが、病気になるときはなるのです。

でも、83歳ってかなり長生きしましたね。だって当時の平均年齢は、30台くらいと考えられていますから、2人と半分分生きたことになりますね!

お墓

京都市北区にあります、大徳寺高胴院の墓所に、細川忠興と細川ガラシャのお墓があります。


それにしてもキレイなお寺ですね!

細川忠興公の子孫

それでは、現在まで、細川忠興公の子孫がいるのか?ってところを見てみましょう。

細川忠興公の長男の家系にいました!

そして妻のガラシャは明智光秀公の娘なので、細川忠興公とガラシャの間に生まれた子の子孫は明智光秀公の子孫とも言えます。

関連記事:明智光秀子孫にタレントクリスペプラーが!坂本龍馬も家系図に?

政治評論家の細川隆元さんと細川隆一郎さんが有名です。お二人ともテレビに良く出ていらっしゃいましたが、今はもうお亡くなりになられています。


そして、内閣総理大臣を経験された「細川護煕」さんも細川忠興の血を継いでいます。(ガラシャの子孫ではありません)


細川護煕さんは奥様と仲が良さそうですね。(異常な愛はお持ちではないですよねキット)

幕末に生きた孝明天皇もそうです。

長男忠隆公の娘が公家に嫁ぎ、そこから繋がります。

ということは、孝明天皇の息子が明治天皇ですから、現在の天皇の血に、細川忠興公とガラシャの血が流れていると言うことです!すごい!

関連記事:孝明天皇の子供は明治天皇かすり替えか?死因真相は伊藤博文の暗殺説?

細川忠興の主な関連作品

映画

  • 関ケ原・・関口春雄

関連記事:映画「関ヶ原」興行収入23億突破!DVD最高!

  • 利休にたずねよ・・袴田吉彦

 

ドラマ

  • 真田丸・・矢柴俊博

 

  • 軍師官兵衛・・丸一太

 

  • 国盗り物語・・石田信之

 

アニメ

  • 戦国無双・・宮坂俊蔵

細川忠興公のまとめ

今回、ヤンデレ(病んでる愛情を持っている)な武将、細川忠興公について見てまりました。

とにかく過激な逸話が多かったですねえ。

特に妻のガラシャ絡みで、多くの人が手打ちになっていったんだなあというところが印象深かったです。

現在に置き換えると、かなりの犯罪を犯しているなって思います。(常識の違いですね)

 

その根底にあるのは、細川家を存続させるため、という至上命題があったこともまた真実ではないかな?と思います。

あなたはどこが印象深かったですか?