引用:Wikipedia
幕末にありながら、戦国武将のような豪傑ぶりを発揮した長州藩士です。
遊撃隊という長州藩士の軍事集団の総督を務め、
そして武士らしく、戦場で散っていきました!
大河ドラマ「西郷どん」では、あの伝説のプロレスラー、必殺技「リキラリアット」「サソリ固
め」を持つ長州力さんが演じます!
山口出身の長州さんは名前も正に「長州」!適役ですね!
今回は、その豪傑の生き様を見てみたいと思います!
来島又兵衛は剣術大石神影流の達人!
柳川藩の大石神影流の創始者、大石進に学びます。
大石進といえば、「左片手突き」という最強必殺技を持つ剣豪です。
九州での試合は40戦して無敗だったとか!
そんな師匠に学んだ来島又兵衛は、そりゃ強いに決まっとりますね!
さらに、馬術、槍術、それから算術まで、武芸だけでなく、文のほうもなかなか長けていました!
性格は?
小さい頃からガキ大将気質で、法螺貝ふきながら、陣太鼓を鳴らし、戦争ごっこに明け暮れていました。
部下を引き連れ、血気盛んに超行動的でしたね。
きっと戦国時代に生まれたら、本多忠勝のような屈強なツワモノとして名を馳せたことでしょう!
大人になっても、血気盛んで、例えば、長州藩(来島たち)と薩摩藩(大久保たち)との関係修
復の場で、酒に酔った主催者で長州藩の布政之助が薩摩藩士の挑発に乗り剣舞を舞い始めると、
たまらず来島も刀を抜こうとして今にも乱闘が始まりそうになりました。
その場は薩摩藩士の大久保利通の仲介で難を逃れましたが、危なっかしいですね。
参照:大久保利通と西郷隆盛との関係まとめ!子孫に麻生太郎発見!
その性格は48歳で亡くなるまで貫かれました。
遊撃隊総督へ
当時、過激攘夷派の長州藩は天皇を擁して幕府を倒そうとクーデターを企てますが、穏健攘夷派
の孝明天皇に嫌われ、開国派らから都を撤退させられていました。
八十八日の政変です。
「このまま京都から追いやられてばかりはいられない!」
「天皇は、どうして天皇を担ごうとする長州藩を嫌うのか?」
来島はどうしても長州藩に日の目を見させようと考えていました。
そして、富国強兵のために高杉晋作が結成した奇兵隊に触発され、
自らは、遊撃隊を結成し、来島は総督となりました。
参照:高杉晋作の辞世の句・おもしろきこともなき世をおもしろくの人生!
これで、戦力を得た来島はとにかく長州藩の名誉回復のため、武力で汚名を朝廷に返上したい一
心で殿様に出兵を願い出ていました。進発論と言われる考え方です。
禁門の変
来島はとにかく京都へ出陣し、朝廷、そして天皇に長州藩主の冤罪を晴らしたい一心で
行動していました。
尼子氏の山中鹿介のようですね!
するとチャンス到来!
第一チャンス!
今まで手を取り合っていた朝廷と幕府の関係がぎくしゃくしてきたのです。
まだまだ、なかなか兵を出すことは長州藩の中でも慎重派が多く、叶わなかったのですが、
この機を逃してはならぬ!と、居てもたってもいられなくなり、
脱藩して京都にいる桂小五郎や久坂玄瑞と協議し、
薩摩藩の島津久光を暗殺計画を立てます。なんという行動力!
参照:島津久光の解説!西郷隆盛不仲説!?子孫に今上天皇がいる
が、帰国命令が国元から出され計画は実施されないまま、仕方なく長州へ戻り、
そして脱藩の罪で牢獄へ入れられます。
自由に動きたいよ!!とは来島の心の叫びでしょう!
第2チャンス!
なかなか出兵をしない慎重派の長州藩藩主とその幹部たちでしたが、進発派の来島を
形勢視察ということで京都に向かわせる事が許されました。
よっしゃ!第2チャンス!ってことで、今度は会津藩主の松平容保を襲う計画を立てます。
が、これも失敗に終わり、また長州に戻ります。
(会津藩は幕府側の有力藩でしたから京都からとにかく排除したかったのですが、
警護が厳重すぎて兵力もないので突破できず)
参照:松平容保とは?イケメン京都守護職会津藩主で孝明天皇の信頼高し!
でも諦めません!
第3チャンス!
中央政府として機能していた諸侯の集まりが噛み合わず解散して行きました(参預会議の解散)。
朝廷を取りまいていた長州から見たら邪魔者がいなくなり、これは京都に乗り込むチャンス!
来島は「行くしか無いでしょう!」と息巻きます。
このタイミングで、池田屋事件!
池田屋で長州藩士も含む尊王攘夷志士が京都の警護をしていた新選組に殺されます。
参照:名刀虎徹(こてつ)とは長曽禰興里が作った刀!どんな剣?池田屋事件で活躍!
もう、やるしか無い!天皇を担ぎ、長州藩主の冤罪を晴らし、政治を天皇の元に戻そう!幕府は要らないと!
感情的にもピークを迎えます。
さらに追い打ちをかけるように、朝廷は長州からの請願を一切受け付けないとの宣告がありました。
冤罪すら晴らすことが出来ないのか!!!
もう、我慢の限界です!
ついに、長州藩藩主からの出陣OKも出て、遊撃隊を率いて、船で京都へ向かいました!
やっと晴れて出陣することが出来ました!
最後は武士のごとく!
天龍寺に入った来島たちの兵力を背景に、長州を許そうよって朝廷の一部の公家は声を上げてくれますが、
幕府側の一橋慶喜は断固拒否!本当に長州を嫌いなんですね!
その後、来島は、幕府側からの撤兵要求など逆に聞き、怒り心頭です。
慶喜は徳川家以外は全て家来だと思っているので、あくまでも上から目線です。
来島は1ヶ月ほどやり取りした後、最後の軍議を開き、援軍を待とう!と主張する久坂玄瑞を
「卑怯者はわしの戦いを見物しろ!」と一喝!
遊撃隊600名を率いて来島は京都御所の蛤御門で会津藩2万と激突!
はじめは門を打ち破りガンガン会津軍を追い詰めていくのですが、援護に来た薩摩の西郷軍銃撃隊の
川路利良の射撃により、来島又兵衛は胸を撃ち抜かれてしまいます!ああああ
参照:川路利良は初代大警視を務めた日本警察の父!来島又兵衛撃つ!
この銃弾により重傷を負った来島又兵衛は、自ら槍で喉を突き、甥に介錯を頼み、自害し果てました。
48歳でした、、、。
最後の死はまさに武士の最期を彷彿させます。
最後に
結局来島又兵衛は、当初の目的である、長州藩主の冤罪を晴らす!って事を叶えることは
出来ませんでした。
が、来島又兵衛が何度も何度も諦めずに動いたことで、幕府や朝廷に動きが生まれ、
禁門の変では敵味方になって戦った薩摩と手を結び、長州は薩摩と共に明治維新の中心メンバーを
組閣し、近代日本をリードしていくことになるのです。
これは、すごい影響力と思います。
ただ、幕末だけでなく、もし戦国時代に来島又兵衛がいたら、どんだけ活躍するんだろうなって
思うと、ちょっと楽しくなります。