さあ、念願の関が原へ到着です!
おお!来ましたよ。
映画関ヶ原はスケール大きく、様々な物語を見させてくれました!
詳しく知りたい方は、下の記事を参照にされてみてください
参照:映画「関ケ原」ネタバレまとめ!戦国武将たちのエピソード5選!
参照:関ケ原の戦い!合戦に至る経緯を分かりやすく5分でまとめました!映画「関ケ原」を10倍楽しめます!
早速、関ヶ原駅前にある観光交流館にてレンタサイクルを4時間500円で借ります。(1日1000円)
(電動自転車もありました。4時間1000円です)
そして、ほぼすべての陣跡を回るモデルコース「行軍コース」を選択し、スタート!
許された時間は約2時間。いかに効率よく回るかがポイントです。
モデルコースは徒歩で6時間コース。自転車で行き、松尾山へ行かないコースをチョイスし
2時間でまとめちゃおう!
2時間サイクリングで攻める関ヶ原!
東首塚→井伊直政、松平忠吉陣跡→徳川家康最後の陣跡→細川忠興陣跡→
岡山狼煙城・黒田長政と竹中重門陣跡→
決戦地→笹尾山の石田三成陣跡→島左近陣跡→島津義弘陣跡→開戦地→
小西行長陣跡→宇喜多秀家陣跡→大谷吉継陣跡→大谷吉継墓→福島正則陣跡→
藤堂高虎・京極高知陣跡→関ヶ原駅
と、相当スピードで駆け巡りました!
一番感慨深く見れたのは、島左近、石田三成の陣と大谷刑部吉継の陣でした。
激戦だった1600年9月15日(新暦で10月21日)が
私の頭の中で鮮やかに蘇ります。
めぐりながら、宇喜多や島津の意見をもっと三成が聞いていたら、、、と思うと、、おお!
タラレバは禁止ですね。
まずは東首塚へ!
東首塚
多くの死者がでた関ヶ原の戦い。
8000人ほど。お悔やみを申し上げます!
そして、井伊直政が後見で松平忠吉に先陣を切らせた陣跡です。
これに先陣を約束されていた福島正則はいきり立ちます!
際どいプライドの戦いです。
次に向かったのが、德川家康最後陣跡です。
徳川家康最後陣跡
参照:徳川家康の天下統一し江戸幕府を開いた人生をひとまとめ!
桃配山の陣から移動してこの場所に陣を東軍総大将徳川家康は張りました。
参照:映画「関ケ原」桃配山伝説!徳川家康公と大海人皇子の共通点は?
島津義弘の退き口もこの辺りをかすめて行ったことでしょう!
そして、西軍の首実験をこの場所で行ったとのこと。
かなり血なまぐさい様子が脳裏に浮かんできます。うっ!
次に行きましょう。
細川忠興陣跡
彼は、実に世の中を上手く生き抜いてきたな!と思います。
本能寺で謀反を起こした明智光秀に味方せず、関が原では東軍徳川家康側
について石田三成と戦うという、常に確実に有利な方に上手くつくなあってつくづく思います。
関ヶ原本戦では、石田三成本隊と激突し、130以上の首を挙げたと言いますから、武勇もなかなかのもんでしょう!
次!
岡山烽火場/黒田長政・竹中重門陣跡
このような竹のトンネルを抜けると、、、
じゃん!黒田官兵衛の息子の黒田長政と竹中半兵衛の息子竹中重門の陣跡です!
黒田官兵衛と竹中半兵衛は豊臣秀吉の元で働いた天才軍師ですね!
参照:軍師竹中半兵衛公の教えは息子竹中重門公に深く届き、軍師黒田官兵衛公の息子黒田長政公の命を救った!
二人が同じ場所で陣を張るっていうのもなかなか!
竹中はこの関が原を治める大名でした。なので、土地を知り尽くしていて、この場所が一番見通しもよく、
全体を把握するのに適していると知っていて陣を張ったとのことです。ホームの有利さを使ってますね!
ここから、德川家康の陣と、石田三成の陣を見ることが出来ます。
この場所からあがった狼煙が開戦の合図になりました!
いざ決戦地へ!
沼地を越えていくとそこは、両軍がガチンコに戦った激戦地がありました。
決戦地!
西軍のメイン部隊の石田三成の陣からほど近い、この場所が、両軍の決戦地となった場所です。
東軍の黒田長政達が西軍の石田三成をめがけて軍を押し寄せ、西軍の主力武将の島左近達がそれを押しのける
といった熾烈な攻防戦が繰り広げられたのでしょう!
耳を澄ますと当時の鬨の声が聴こえてくるようです、、、、。
そして、決戦地から笹尾山という小高い山の麓へ向かいます。
島左近陣跡
島左近は石田三成が自分の半分の禄を与えて召し抱えた超優秀な武将です。
参照:「関ケ原」出演、平岳大さん演じる島左近公の男としての魅力をお伝えします!
島左近が、主君石田三成を東軍の攻めの勢いからなんと守ろうと奮闘した場所ですね。
そこから笹尾山を登ると見えてくるのが石田三成が陣を構えた場所があります。
石田三成陣跡
参照:石田三成公の旗印「大一大万大吉」の意味は「one for all all for one」の精神です!
石田軍は結構鍛えられた屈強の部隊だったようですが、東軍の勢いの前に屈してしまいました。
そこから進めて西軍島津義弘の陣跡に駒を進めましょう。
島津義弘陣跡
九州最強の島津家の四兄弟の次男、義弘が陣を張った場所です。
島津義弘は、積極的に討って出ず、この陣地に敵が攻め込むときだけ応対するといった完全に
消極的態度でした。
何故って?少ない手勢の島津軍(3000くらい)を石田三成ら幹部が存在を軽視した行動ばかりを
とったようで、戦の天才「鬼島津」と呼ばれた島津義弘のモチベーションをかなり下げてしまったようです。
勿体無いこと!
結局、西軍の敗色が濃厚になると、「島津の退き口」という部下が捨て身になって、大将である義弘を
逃げさせるという過激で危険な戦法で義弘は無事に薩摩まで生き延びています!
次は関ヶ原の開戦地となった場所と、小西行長の陣跡です
開戦地
9月15日早朝。東軍は松平・井伊隊の攻撃に対し、西軍の宇喜多秀家隊
が激突し、戦いの幕が切って落とされたのです!
そして小西行長の陣跡です
行長の陣から石田三成の陣跡を見てみます。
正面の山の中腹に旗が見えますでしょうか?三成の旗です。
さらに駒を進めると、西軍で一番意気揚々と戦闘モードに入っていた軍隊、宇喜多秀家陣跡へ行ってみます。
宇喜多秀家陣跡
神聖な雰囲気の杉の林の中を進むとありました。
ここからかつての豊臣5大老の一人、宇喜多秀家は出陣し、東軍を蹴散らして行ったのです!
参照:映画「関ケ原」西軍武将・宇喜多秀家公と豪姫との恋物語!
しかし、東軍の勢い、そして小早川秀秋らの裏切りにより壊滅!落ち延びるしかなくなります。
宇喜多秀家は、小早川秀秋の裏切りに、相当腹を立てたと言い、東軍よりもまずは小早川を戦いのターゲットに
しようとした程でした。そりゃあ、宇喜多秀家と同じ豊臣5大老であり、しかも小早川秀秋は秀吉の正室の実の兄の子供。
やっちゃいけないことを小早川秀秋はやってしまったのですね。
そして、その小早川秀秋が裏切った場合の備えをしっかりしていた大谷吉継の陣跡です!
大谷吉継陣跡
大谷吉継の陣近くの見晴らしからは、きっちりと小早川秀秋の陣、松尾山が一望出来ます。
パーキンソン病?で自分で歩くことが出来なかった大谷吉継が輿に乗りながら懸命に指揮を
したのでした!
もともと、大谷吉継は、完全に徳川家康と戦う事を反対していました。
しかし、義の将大谷吉継は、親友石田三成の心意気に、勝てる可能性がゼロに近いこの戦いを
引き受けたのでした。義を貫く人生もありです!
参照:
その後、東軍の福島正則と藤堂高虎、京極高知の陣跡をがーーと見ました。
福島正則陣跡
参照:映画「関ケ原」黒田長政公と福島正則公との兜交換は仲直りの験だった!
賤ヶ岳7本槍の一人、可児才蔵擁する、福島正則隊は宇喜多秀家隊を次第に蹴散らしていきました。
福島軍対宇喜多軍は結構実力が均衡していたんじゃないでしょうか?
藤堂高虎、京極高知陣跡
藤堂、京極軍は、大谷吉継軍と熾烈な戦いを強いられるのです。
関ヶ原最強武将は?
東軍徳川家康の家臣!徳川四天王「本多忠勝!」
道途中でこんな電柱見つけました。
実際に本多忠勝はどのくらい強かったのでしょう?
うーん!やっぱり強い!
関が原に参加した武将の中ではどうでしょう?
参照:「関ケ原」の戦い最強武将は、可児才蔵公?本多忠勝公?島左近公?
そして、最初のスタート地点、関ヶ原駅前観光交流館に戻ってきました!
関ヶ原地図
関連施設記事
映画「関ケ原」の舞台、関ケ原周辺の戦国武将ゆかりの食事処5店を紹介します!
最後に
関ヶ原めぐり、いかがだったでしょうか?
有名な武将たちも多く参戦した天下分け目の戦い「関ヶ原」。
徳川家康の天下統一を決定づける結果となりました。
武将たちの息遣い、鬨の声、槍で叩く音、馬のいななき、刀がきしむ金属音、様々な音と、色んな思惑と、、、、。この日本の盆地に
うごめいていたと想うとふっと倒れそうになります。
私達のご先祖様たち、様々なドラマをありがとう!