戦国時代をこよなく愛する激務ファミレス店長がお届けする

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現在ならば、生まれた時に付ける名前は死ぬまで同じ名前(本名)でいるのが

普通ですよね。(改名される方も中にはいますが少数派だと思います)

 

ところが戦国時代には、何度も名前を変えるのが普通でした。

逆に死ぬまで同じ名前の人はあまりいませんでした。

 

最低でも一回は名前を変えています。

 

では、どのような時に変えたのでしょうか?

 

最低一回は名前を変える時

それは、幼名から実名に名前を変えるときです!

 

元服」と呼ばれ、今で言う「成人式」のようなものです。

(元=首頭、服=着る、で「頭に冠を着用」する儀式、という意味です)

大人の仲間入りですね!

 

大人になると同時に名前も変わるなんて、なんか、大人への階段を登る

ようで、ステップアップがわかりやすくていいですね!

 

元服はだいたい11歳から17歳くらいの間に行われました。

 

徳川家康公も例に漏れず元服で名前を変えています。

 

そして、その後も何回か名前を変え、全部で5つの名前を持っていました。

 

それでは、それぞれの時代背景と共に徳川家康公の名前の変化を見ていきましょう!

はじめの名前(幼名)松平竹千代

徳川家康公

父である松平広忠公が、懇意の寺で詠まれた連歌にちなんで命名したと言われています。

 

その寺は、「称名寺」といい、ある時寺で連歌会「夢想の連歌」(発句に対して脇句を歌う事を楽しむ会)がありました。

そこに徳川家康公の父、松平広忠公が参加していました。

 

発句「神々の 長き浮き世を 守るかな」に対して、松平広忠公はどのように読んだのでしょうか?

 

脇区「めぐりは広き 園の千代竹」と歌いました。

 

凄い!なんか今後の江戸幕府、長期政権を予想するような連歌ですね!

 

これを聞いた当時の寺の住職第十五世一天和尚が「竹千代」と命名したと言います。

 

いやああ、住職さん、センスありますねええ!ピカイチです!

そんな竹千代は、今川家織田家の人質として暮らしていました。

そして、人質のまま「元服」を迎えるのです。

 

2回目の名前 松平元信公

元服して一回目の改名をします。

今川義元公率いる今川家の人質として元服したので、

「今川義元」の「元」の字をもらい、「松平元信」と名付けました!

これは、14歳から15歳までの間の名前でした。

短かったですね!

現在で言う、中学2年生から3年生にかけての頃です。

 

それにしても、中学生でもう大人の仲間入りなんて!

今では考えられないですねえ驚!

 

3回目の名前 松平元康公

これは、「元信」の「信」が「織田信長」の「信」につながってしまうので

すぐに改名することになりました。(その当時今川家の人質だったため。敵である織田信長公の名前の「信」を廃されました)

 

そこで、「信」の代わりに、尊敬する徳川家康公の祖父「松平清康」から「康」をもらうことと

なりました。

この名前は、16歳から22歳まで、使いました。

心身ともに成長著しい青年期をこの名前で過ごしたのですね!

4回目の名前 松平家康公

今川義元公が「桶狭間の戦い」で織田信長公に討たれると、今川家は急速に衰退します。

徳川家康公はその隙きをついてまたしても改名をします。

「元」を廃し、「家」を用います。

「家」は「源義家」から取りました。

源義家公は、武士ではじめての政権である、鎌倉幕府を開いた「源頼朝公」の曾祖父さんです。

源頼朝公からさらに7代あとが、室町幕府を開いた「足利尊氏公」です。

 

このように、2人も幕府を開いた人が子孫にいる源義家公を、家康公が字をもらったのは、

偶然ではないでしょう!

 

22歳から25歳まで、この名前を使用していました。

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5回目の名前 徳川家康公

最後の名前です!

この名前、といいますか、名字を改名することになった経緯を見てみましょう!

 

徳川家康公を遡っていきますと、9つ上に行くと初代にたどり着きます!

 

初代は、「松平親氏」と言います。

この方、元々、お坊さん(お坊さんとしては「徳阿弥」という名前だった)でした。

ある時、お坊さんの徳阿弥さんは、三河(愛知県)の庄屋(村の有力者、今で言う村長さんみたいなものです。)であった松平信重さんの婿養子に入ります。

 

このお坊さん「徳阿弥」さんは、何を隠そう、先程出てきたサラブレッドの源流、清和天皇の子孫「源義家公」の流れを持つ「得川氏」の末裔です。

家康公は、どうしてもこの武家政権を開始した「源義家公」の流れを肩書として持ちたかったたのでしょう!

 

ある時、称名寺での連歌会がありまして、そこで庄屋の松平信重さんに出逢うこととなるのです。

そこから婿養子の話が生まれ、実現することになります。

(そうです!この称名寺は、幼名竹千代の命名のもとになった連歌会が行われた寺です!)

その時、「得川」から読みをもらい「徳川」という名字に改名しました!

 

そして松平信重さんの婿養子に入った「得川氏」の末裔の「徳阿弥」さんは還俗し「松平親氏」と名乗り家康公たちの初代となるのでした。

 

で、「徳川」は源義家公の流れをくむ「得川」から付けられたのでした!

まとめ

徳川家康公の5つのお名前をご紹介して来ましたが、

いろいろな理由がありましたね!

 

幼名は、歌からつけられた「竹千代」

二つ目は元服し、今川義元公からもらい「松平元康」

三つ目は、今川義元公が討ち死にしたので、おじいさんからもらい、「松平清康」

四つ目は、鎌倉幕府と室町幕府を開いた源義家公からもらい「松平家康」

そして最後は、源義家公の流れの中の「得川氏」の末裔が、松平家の初代と

なったため、「徳川」にして引き継いでいった!

 

このように、周りの環境に合わせて変えていくのが普通だったようです。

理由もわかりやすいです!

徳川家康公をもっと知りたい!という方は、以下の記事でもお楽しみになれます!