西郷従道(信吾)は維新三傑の西郷隆盛の弟です。

※読み方は「さいごうつぐみちORじゅうどう(しんご)」(もとは隆道でしたが役所の手違いで従道と読み違い。その間違えた名前が定着してしまったそうです。そういえば、兄の隆盛も本当は隆永だったとか?)
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同じ釜の飯を食べ、喜怒哀楽を共にし、戦争でも一緒に行動した二人でしたが、西南戦争を境に違う道を歩むことになってしまいます。

兄の隆盛は鹿児島に残り後輩の士族たちの親玉として明治政府軍(官軍)に刃を向け、一方従道は、明治政府の幹部として東京にいたままじっと留守番をし、兄を助けに行くという行動を起こしませんでした。

兄と対する立場に身をおかざるを得なかった信吾(従道)の心の中はどんなだったのでしょうか?

それは、「自分の考えは、明治政府と戦うという選択肢はない。兄には兄の考え方がある。それを止めることは出来ない。そんな兄と直接戦うことは出来ない。兄にはきっと生きてまた東京に戻ってきて欲しい!」といった心の中だったのではないでしょうか?

 

今回は、そんなきっと複雑な感情を持ちながら兄の最期を知った弟、西郷信吾(従道)の事を見てみたいと思います。

※大河ドラマ「西郷どん」では、錦戸亮さんが演じています。

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引用:Wikipedia

眉毛太く、目も大きいですね。少しシャープですがお兄さんに雰囲気似てますね!小西郷と呼ばれる所以?ある人は、従道の風貌はまるで「達磨だ!」と言っていたようです。身長は170センチ位で体重は92キロあったようです。

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西郷従道(信吾)の年表

年号出来事年齢
1843年西郷吉兵衛の三男として産まれる。その後茶坊主になる。(幼名竜助)
1861年還俗し改名(本名隆興、通称信吾)18歳
1862年寺田屋事件に参加。年少のため謹慎処分。19歳
1863年謹慎処分解除。薩英戦争では決死隊に志願20歳
1868年戊辰戦争では各地を転戦する。
1869年兵武権大丞(国防行政機関)に任じられ、正六位に叙せられる26歳
1871年陸軍少将を任じられる28歳
1873年兄の隆盛、征韓論敗れ下野するが、従道は政府に残る。30歳
1874年陸軍中将を任じられる31歳
1875年愛馬ミカンでレース参加(日本初の馬主)32歳
1877年西南戦争では政府の留守番をする34歳
1878年陸軍卿(大臣)に任じられる35歳
1882年農商務卿兼開拓使長官兼参議を務める39歳
1884年伯爵(侯爵の下)を授けられる41歳
1892年元老として枢密顧問官(憲法の番人)を任じられる49歳
1894年海軍大将を任じられる51歳
1895年侯爵(公爵の下)を授けられる52歳
1898年元帥の称号を受ける55歳
1902年目黒の自宅で胃がんのため死去。

最後の位は従一位。(上から2番目の位)

59歳

西郷家の三男坊が最後はすごい出世しましたねえ。

なんて言っても海軍と陸軍の両軍の大臣を務めちゃっています。これは後にも先にも従道だけだそうです。

更に!位が「従一位」!ちなみに一位が「正一位」です。

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すごいですねえ。

しかし、そんなすごい従道も若かりし頃はなかなかやんちゃでした。

では、若気の至り的な逸話をお楽しみ下さい!

西郷信吾(従道)の若かりし頃の逸話

寺田屋事件で戦を目に焼き付ける!

信吾と通称(名前)が変わって最初に感化されたのが「尊王攘夷(帝を主と仰ぎ、外国人を排除する)運動」でした。

先輩の有馬新七が薩摩の中では中心人物で熱い男でしたので、その影響を受け、信吾もついていったのでしょう。

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しかし、京都の寺田屋で有馬たちが集まっている所、薩摩藩の国父、島津久光から送られた鎮撫隊(過激な有馬たち尊皇攘夷志士を取りしまる薩摩藩の部隊、隊長は有馬と幼き頃から切磋琢磨してきた仲間、大山格之助でした)によって有馬たちは討ち取られます。これは、悲しすぎる同士討ちでした。。。

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信吾は無事でした。しかし、血が流れる惨状の中にいたまだ若干19歳の信吾は、相当ショックを受けたでしょう。

皆、様々な処分がくだされる中、信吾は、まだ年少だと言う理由で、謹慎処分ですみました。

 

薩英戦争ではスイカ売りに変装して敵の船に乗り込未遂!

しかし、血が騒ぐ信吾は、謹慎が解けるとすぐに行動を起こします。

まあ、懲りないといいますか。

薩摩とイギリスが生麦事件をキッカケにして始まった戦争、「薩英戦争」での逸話です。

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どんな行動を起こしたか?

なんと「スイカ売り」に変装して、イギリスの船に潜り込み、敵を殲滅しようと試みます。

いやあ、発想がすごい!しかしながらこれは失敗します。

攘夷(外国を排除)の心はまだまだ消えていなかったのですね!

戊辰戦争では戦の酷さを再度思い知らされる!

熱い熱い信吾さんですが、今度は、本格的な国内の戦争が起こります。「戊辰戦争」です。

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兄の西郷隆盛が新政府軍の責任者でいる部隊小銃5番隊として参戦します。

激戦の地、鳥羽伏見の戦いのとき、銃弾を首筋に受け、重症を負います。

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※この傷が元で右耳がきこえなくなったとか?

兄の西郷隆盛は弟の負傷を聞いて、内心早く行ってやりたい気持ちになったでしょうが、自らは全軍の将。自分だけが一人の身内のために離れるわけには行かない!と頑なでした。

辛い、つらすぎます。戦争とは、はたから見るとかっこよさそうに見えます。が、実際は、苦しみ悲しみ痛み、と地獄のような世界なのでしょうね。家族を見舞いにも行けないなんて!

結果、信吾は回復することが出来たので良かったです。ここで亡くなっていたら、明治維新もまた少し変わったものになっていたでしょう。

と、まあ、なかなか行動力があって、突き進むタイプだったようですね!

その後の、長岡での北越戦争に参戦します。この時は、苦戦を強いられていた次兄、西郷吉二郎を助けに行っていたのですが、時すでに遅く。吉二郎は亡き人になってしまいました。

この場面を描いた「西郷どん38話」は本当に泣けました。涙で画面が見えなくなるほど・・・。※個人的には。

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西郷従道(信吾)と西南戦争

戊辰戦争が終わり、明治維新が成立すると、従道はどんどん出世して行きます。

主に軍の道を突き進んでいきます。

そんな時、新政府にいた兄の隆盛は、征韓論(朝鮮を武力で開国させようという考え方。西郷隆盛はまずは武力の前に話し合おうとする考えでした)の議論に岩倉具視たちに敗け、東京の職を降り、鹿児島に帰りました。

この時、西郷隆盛の辞職を受け、600人もの官僚や軍人が職を辞しています。

ものすごい影響力ですねえ。

しかーし、そんな中、西郷従道(信吾)は東京の明治政府に残る決断をします。

家族である西郷隆盛の後を追うことはしなかったのです。「う~~~~ん、なかなか理解に苦しみますねえ」

 

理由は、兄の西郷隆盛から残るように言われた(兄弟揃って賊軍になってしまっては世間的に厳しい目を向けられる。そして従道に政府に残ってもらい、ロシアが攻めてきたときにしっかりと日本を守ってほしい)!というのがあるようです。

それと、ヨーロッパを見てきた経験を持つ従道からは、征韓論というのはあまりおすすめ出来ない考えだったのかもしれませんね。

 

結局これより以降、従道と隆盛の進む道が交わることはありませんでした。

西郷隆盛は、新政府に不満を持つ鹿児島の若者たちを抑えられず、そのまま親分に担がれてます。

そしてかつて西郷隆盛と一緒に明治政府を立ち上げた仲間(大久保利通、木戸孝允、岩倉具視)たちがいる官軍に戦いを挑むことになるのです。(西南戦争)

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従道の心の中

まさに冒頭の「自分の考えは、明治政府と戦うという選択肢はない。兄には兄の考え方がある。それを止めることは出来ない。そんな兄と直接戦うことは出来ない。兄にはきっと生きてまた東京に戻ってきて欲しい!」という思いがあったのではないでしょうか?

でも一方で、不満を持つ鹿児島の士族たちの気持ちも分からなくもない。だって、自分もかつては色んな不満を持って活動をしていましたから。

だから、沈痛の思いで東京に残り、兄の再起を願い兄のために土地を購入しました。(結局この購入した土地は、兄のためには活用することが出来ませんでした。今は西郷山公園として、目黒川の近くに佇んでいます。)

 

隆盛の為に購入した土地でしたがその願い叶わず、そして自らがそこに住んだのでした。

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東京の西郷従道邸跡について

引用:https://omugio.exblog.jp/17479690/

岡城城主中川修理大夫の元屋敷

従道が購入した土地は、「荒城の月」のモデルで知られる岡城城主中川修理大夫の屋敷でした。今の目黒にあります。(桜がキレイな目黒川の近くですね!)

樹木が茂り、池もあり、もともと美しい庭園がそこにはありました。

それをさらに手を入れ、その地形にあった庭園を作り込んだのです。

明治天皇も来られていた

従道が海軍大臣を務めていた明治22年のことです。

明治天皇が来邸し、庭園で薩摩踊りや大相撲などが披露され、天皇は観覧されたようです。

島津斉彬と西郷隆盛が相撲をしたことを思い出します。

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現在は博物館明治村に!

引用:Wikipedia

従道の死後、家督を継いだ従徳が渋谷に引っ越すまで本邸となっていましたが、空襲などで焼け、当時の面影は殆ど残されていません。うーん、残念。

ただ、外交官との接客の場としてつくられた「西洋館」は難を逃れ、国の重要文化財として、愛知県犬山市にあります、明治村に移され保存されています。

西洋館は、フランス人建築家のレスカスの設計で1877年に立てられ(面積は251.95㎡)、半円形のベランダや、流れるような曲線の廻り階段、内装を飾る部品は船来品(輸入品)で仕上げられていました。

特に2階応接室にある暖炉は、白地に青の模様がキレイです!

明治村公式サイト⇒http://www.meijimura.com/guide/open/

 

その後の西郷従道(信吾)の出世ぶりは?

西南戦争は、結果、最愛の兄、西郷隆盛の命を奪っていきました。

相当のショックを受けて一時は辞職を考えた従道でしたが、同じく袂を分かつこととなった西郷隆盛の親友大久保利通や明治天皇からの声かけによって、明治政府に残ることを決めました。

 

ここには、兄、西郷隆盛の願いがありました。

ロシアから日本を守って欲しい!

この命題を達成するために従道は後の人生を歩んでいきます。

海軍・陸軍・内務大臣などを歴任して行きます。

その中でも、海軍大臣は初代を務めるのです。

 

そんな従道の部下の採用に関して逸話がありますのでご紹介しましょう。

日露戦争勝利の裏には西郷従道の予算分捕りがあった!

同郷鹿児島城下町で育った山本権兵衛が海軍の責任者でいた時の話です。。

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山本は実力はあり、海軍を強くするための計画もしっかりと持っていました。

しかしロシアとの戦争に勝つために必要な軍艦を買い揃えるのに莫大の予算がかかり、そのため苦心をしていました。

そこで従道は海軍の予算を分捕るという強力なサポートをしたのでした。

それはこうです。

議会から多大な海軍予算について追求された従道は一言、「軍艦は鉄で出来ております。大砲も撃つのでごわす」と人を喰った様な言葉で言い切り、議会の声々を黙らせ、見事予算奪取に成功します。

大物すぎます!

従道は山本に対して細かいことは言わず、基本的にすべて任せ、責任と予算は自分がとるっていうスタイルだったようですが、これが大成功!

当時世界最強だったロシアのバルチック艦隊をぶち破り、日露戦争の勝利に大きく貢献したのでした。

(日露戦争時、海軍の連合艦隊司令長官を務めたのは同じく鹿児島出身の東郷平八郎でした。)

従道が予算を取り、山本が軍艦を強化し、東郷が戦争を実行する!

この薩摩隼人3人のおかげでロシアを倒したと言えるでしょう。

ここに西郷隆盛の願い、完結するのです!

 

 

余談ですが、その後山本は2回も総理大臣になるという実績も残します。そして一度は関東大震災の直後の日本が大混乱におちいったときでした。そんなときにも派手ではありませんが、着実に政治を行えた人だったのです。

そして山本は部下に東郷平八郎を抜擢します。東郷もまた鹿児島の城下町で育った男でした。

 

そもそも従道自身は総理大臣にはならなかったのでしょうか?

総理大臣を断り続けた従道!

従道は総理大臣だけはしませんでした。

実は総理大臣には何度も推薦され、明治天皇からも推められていましたが断り続けていました。

能力もあったし、実績も申し分なかった従道が何故断っていたのか?

それは、兄隆盛が西南戦争で結果的に逆賊の汚名を着せられていたからです。

逆賊の弟が日本の政治のトップになるわけには行かないでしょう、という思いからでした。

複雑なもんですねえ。

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西郷従道(信吾)の家族は?

では、西郷信吾の家族や他の兄弟たちはどうだったのでしょうか?

気になる方はこちらの記事をどうぞ

関連記事:西郷隆盛の弟・妹は何人?わかりやすく図・年表でご紹介!

西郷家家系図

なんと、7人も兄弟がいたのです!

しっかり者の琴や、西郷家の大黒柱的な吉二郎など、個性あふれる面々でした、

貧しいながらも明るく笑いが耐えない素晴らしい一家でした!

(屋根が雨漏りしたり、借金が200両あったりと厳しい現状でしたのに、もかかわらずです)

そしてそれを引き継ぐかのように、従道には子供が11人もいました。

次に従道の妻・子供について見てみましょう!

西郷従道の子供・妻、そして子孫は?

妻清子

引用:https://omugio.exblog.jp/17479690/

妻は清子といい、6人を産み育てたお母ちゃんです!

大河ドラマ「西郷どん」では上白石萌音さんが演じています。

実際の清子さんも目がくっきりしてな鼻筋も通って美しいですねえ。

大蔵省印刷局長を務めた得能良介の娘です。

余談ですが、冒頭の西郷隆盛の肖像画は、得能良介がイタリア人のキヨッソーネに描かせたものです。それにかかった資金は、西郷隆盛の死後、隆盛の妻・糸に渡そうとした香典700万円(現在の価値で1000万)を突き返させられて困った挙げ句、肖像画を贈ることを思いつき、香典のお金で描かせたものでした。(糸がお金を突き返した理由は、香典が大金過ぎたためでした)

従道と清子の子どもたち

長男:従理(7歳でロシアに渡り、ロシアの皇后に可愛がられ、キリスト教正教会の洗礼を受けた。アメリカワシントンで腸チフスにかかり、10歳という若さで亡くなります。死の直前、欧州視察に訪れていた従叔父の大山巌がお見舞いにおとづれています。)

次男:従徳(陸軍大佐・貴族院議員。西郷家家督を継ぐ。)

※大佐は軍隊の階級の一つ。中佐の一つ上で大将より下

引用:https://omugio.exblog.jp/17479690/

眉毛と目は引き継いでいますね!

三男:豊彦(陸軍少将で貴族院議員)

※少将は軍隊の階級の一つ。准将の一つ上で元帥より下。

四男:従義(海軍大佐。船乗り大将上村彦之丞の養子。総理大臣山本権兵衛の娘と結婚)

七男:従志(伯爵小松重春の養子)

※伯爵は貴族の階級の一つ。5つの階級の3番目。

三女:桜子岩倉具視の孫で公爵岩倉具張の妻。桜子は具張がスキャンダルを起こし最後は別居状態に。)

※公爵は貴族の階級の一つ。5つの階級の1番目。

その子孫は?

●次男従徳の孫従節は、富士通、ファミリーマートの取締役を務めた。

●次男従徳の子従達は今上天皇の皇太子時代を東宮で事務を監督した。

●三男豊彦の子光彦は東京農業大学理事長を務めた。

●三男豊彦の曾孫力丸は鎌倉学園英語教師。

●三男豊彦の孫正道はネパール大使を務めた。

●三男豊彦の曾孫真悠子は女優として西郷桜子を演じた。

新橋の芸子・ナカ

従道には妾がいました。

永田町岡田吉右衛門の娘、ナカさんです。

東京新橋の芸子さんで、「桃太郎」と言われ有名だったようで、従道は特に熱を上げたのでしょう。

彼女との間には、5人の子供をもうけています。

従道とナカの子供たち

長女:政子(外交官楢原陳政と結婚)

五男:従親(海軍機関大佐)

六男:豊二(高羽豊志子と結婚)

次女:栄子(士族平岡良助と結婚)

四女:不二子(実業家古河虎之助(古河財閥3代目。絶世の美男)と結婚。不二子もかなりの美女。)

引用:Wikipedia

古河虎之助さんです。イケメンすぎますねえ。

 

まとめ

西郷信吾(従道)は、西南戦争の前に兄、西郷隆盛と袂を分かちます。

しかし、二人は心の奥底では、きっとつながっていたんだと思います。

それは、兄隆盛の再起を願って購入したという西郷山公園がそれを物語っているんではないでしょうか?

時代を切り開いていった薩摩から生まれた兄弟。

私達の心を揺り動かす物語を届けてくれました。

「ありがとう!」